Church Lectures
21世紀の教会の使命-伝道そして地域宣教協力の可能
1 教会とは何か
宗教改革者は、真の教会のしるしが「御言葉の説教と聖礼典の正しい執行」にあると考えました。教会とは、建物でも、そこに集う会衆でもなく、聖書の言葉が正しく語られ、洗礼と聖餐という聖礼典(サクラメント)が正しく行なわれるところと理解されました。
同時に、教会は古来より、「唯一の、聖なる、公同の、使徒的」(ニカイア信条の言葉)なものであると信じられてきました。確かに、教会には、時代や地域によって多様性があります。東方教会と西方教会、カトリックとプロテスタント、さらにはアメリカで生まれたプロテスタント諸教派の教会には、制度や信仰告白の理解に大きな相違があります。しかし、これらの相違にもかかわらず、代々の教会は「唯一の」教会を信じると告白してきました。教会の唯一性は、父なる神と子なるキリストそして聖霊なる三位一体の神の「一性」の根拠づけられるとともに、各時代、各地域の諸教会の信仰が普遍的なものであることを表しています。信仰の普遍性とは、公同的諸信条が告白する三位一体の神への信仰の普遍性です。どの時代にも、いかなる場所でも、また誰によっても、普遍的で公同的な教えが伝道され、その信仰によって教会の形成がめざされるがゆえに、教会は、他の集団とは区別された聖なるものと告白されるのであります。同時に、現在の教会は、使徒の時代の信仰に基礎付けられた「使徒的」なものと告白されます。
プロテスタント教会は、このような古代教会の教会理解を継承しています。しかし、ローマ・カトリック教会とは異なって、プロテスタント教会は、教会が神の御子イエス・キリストの受肉した体の延長ではなく、どこまでも罪人の群れであると自己認識します。しかし、この自己認識ゆえに、教会は、御言葉の説教(目に見えない言葉)と聖礼典(目に見える言葉)の執行という教会固有のしるしによって、十字架にかかり復活され、天に昇られた主イエス・キリストの赦しをいただいて、赦罪の権威の唯一の保持者である、復活の主を証言し続けます。換言すれば、教会は、確かに地上に存在する罪人によって構成されていますが、本来は復活し昇天された主イエス・キリストのおられる、天に基礎を持つ共同体です(Ⅰコリント3:10~17、Ⅱコリント5:1~2参照)。教会は、その土台がわたしたちの生きている地上の事物にあるのではなく、復活の主のおられる天にあるゆえに、逆三角形のピラミッドのようなものであると喩えられてきました。
このような教会の本質は、教会が各個教会だけで教会を形作るのではなく、地域の諸教会の協力が不可欠であるという考えを生み出します。事実、歴史的な諸教会は、ほぼ例外無く、各個教会だけでなく、地域の諸教会、全国の諸教会を全体教会と考え、教会の形成や伝道にさまざまな協力を行なってきました(Ⅰテサロニケ3:2)。教会が一致協力するための基本は、単に人と人との交わりではなくて、正典、信仰、職制の相互理解と一致に基づく、地道な関係の構築です。
21世紀を迎えた諸教会は、3年余の新型コロナ・ウィルスの感染拡大という新しい事態に拠って、伝道の停滞を余儀なくされてきました。しばらく礼拝を中断した教会、オンラインのみで対面の礼拝を中止した教会、家庭での礼拝に切り替えた教会など、対応は様々でした。
しかし、危機の時代は、新しい伝道の可能性をも生み出します。まずオンラインの礼拝は、新しい共同体の可能性を形成するヒントをわたしたちに与えました。
おそらく、コロナ禍がなければ、何十年もかかったであろう諸集会のオンライン化が一気に進みました。教育機関、会社、そして教会です。おそらく教会は、後塵を拝してはきましたが、いくつかの諸教会では、祈祷会や礼拝を対面とともにオンラインでも実施するようになりました。恩恵を受けた方々の中には、体が不自由で礼拝にお出でになれないハンディキャップを持っている方々、高齢の方々も含まれます。
筆者が牧会している大森めぐみ教会では、オンラインの礼拝、諸集会とともに、毎週時を定めて、Zoom による神学講座、教会講座を行っています。30名前後の方々が、全国からアクセスして、それらの講座に参加してくださるようになりました。
東京を離れた教会員の声を聴き、お顔を拝見するチャンスでもあります。おそらく、新しい地域の諸教会の伝道協力は、新しい時代を迎えることと思います。今までしたことのないような伝道協力に取り組みたいと思います。地域の概念は、一気に拡大し、日本全国の同じ歩みを志す諸教会が、全体教会としての一体性を信仰の上でも、活動の上でも実感できるのではないかと思います。
2 正典、信仰、職制
正典、信仰、職制は、先にのべた天にその基礎を持つ教会を地上に建てるための、もっとも重要な座標軸です。代々の歴史的諸教会は、座標軸の取り方には多様性があるものの、三つの座標軸を定め、座標を取って立体的な歴史的可視的教会を形成するという点では、一致しています。
正典(カノン)とは、新旧両約の聖書66巻のことです。神の言葉として、礼拝でも家庭でも、あまり意識せずに読んでいる聖書は、はじめから66巻として結集されていたものではありません。紀元4世紀後半に、グノーシス主義やマルキオン主義が、いわゆる聖書諸文書を拡大したり、縮小したりしたために、その動きに触発されて結集が促されて成立しました。しかし、このような外的な要因だけでなく、イエス・キリストを神の子として証言する「神的」書物として66巻が教会によって選ばれ、結集されたこともきわめて重要な事実です。プロテスタント教会は、自分たちの信仰告白の中で、正典としての聖書66巻を位置付け、それが、テモテの信徒への手紙(Ⅱ)3章16節に記されているように、「神の霊の導きの下に書かれ」たものであると告白しています。
わたしたちの教会は、何より聖書を信仰の規範とし、この聖書という唯一の規範に規範される規範として信仰告白を重んじます。聖書を信仰の規範とするということは、わたしたちの個人の信念や確信は、教会の信仰とはならないということです。あるいは、自分自身の信仰の熱心さとか強さというものも、教会の信仰の規準にはなりません。宗教改革者は、しばしば信仰を「空の器」と呼び、何よりそこに注がれる神の恵みの主導性を第一に考えました。
残念ながら、現代の教会には、なお聖書を規範とするより、自分が生きている時代の価値観やイデオロギー、時にはヒューマニズムのようなものが、規範になる傾向があります。本来教会は、主イエス・キリストという真の主人以外には、決して従属しない人々の群れであるのに、教会の中の有力者や「支配者」の意見が中心となって、聖書という規範以外のもので教会が運営されることもあります。それは、教会の世俗化、教会が教会でなくなるしるしです。パウロが、ローマの信徒への手紙1章1節で、自分自身を「キリスト・イエスの僕〔奴隷〕」と呼んだ意味を深く考えることが必要です。
第二に、教会が立つ座標軸は、信仰(クレドー)です。具体的には、信条や信仰告白と呼ばれる、教会が聖書に基づいて形作ってきた信仰の言葉があります。古代教会の諸信条の起源は、洗礼式や洗礼志願者教育で用いられた信仰の言葉にあります。それらは、例外なく、三位一体の神を証言し、十字架にかかり復活された主の現実を告白しています。ニカイア信条のカードをお配りしましたが、この信条の言葉には、3~4世紀の教会が経験した信仰の戦いとともに、その時代のキリスト者が洗礼を受けて、主の生命に与る息を呑むような瞬間が凝縮されていると言ってよいでしょう。
わたしたちは、信条や信仰告白というと何か堅苦しくて、自由でのびやかなわたしたちの信仰を阻害してしまうのではないかと考えてしまいます。しかし、それは信条や信仰告白についての誤解から生じる偏見です。本来の信条の言葉は、きわめてのびやかに、現臨される三位一体の神を讃美頌栄する言葉です。教会という共同体が、この言葉に生きるとき、礼拝が楽しくなり、兄弟姉妹が声を合わせて、神を讃美することにおいて、一つになります。ニカイア信条が告白する、「唯一の、聖なる、公同の、使徒的」教会を信じる意味が実感としてわかってきます。
同時に、信仰の言葉は、共同体の共通の言葉となるゆえに、わたしたちの教会の信仰を拘束します。「拘束する」というと、いかにも硬い表現ですが、何か外なる力によって強制することではありません。自由な教派的教会の存在する現代日本では、教会は、同じ信仰に立つ契約共同体として、同一の信仰に拘束されてこそ、復活の主を頭(かしら)とする群れであり続けることができます。
第三に、教会の職制(オルドー)があります。職制とは、目に見える教会の制度や教職の位置付け、教会の統治形態のことです。キリスト教は、古来より、物質を軽んじ低く見積もるグノーシス主義と激しい戦いを演じてきました。グノーシス主義は、わたしたち人間は、地上にあって悪しき物質世界にその実存を閉じ込められた存在であるとみなします。それゆえ、人間は、真の神の知(グノーシス)の認識を通して、物質の悪から脱却し、真の自己認識に至ることによって救われると教えました。このグノーシス主義は、キリスト教の本質を骨抜きにしてしまうような思想です。キリスト教は、神の創造された世界は善き世界であると信じます。確かに悪や苦難が歴史と世界には存在しますが、創世記1章が描く、神が「よしとされた」世界は、神の祝福の下にあって信頼するに足る世界であると考えます。何より、主イエス・キリスト御自身が、わたしたちと同じ肉体を取り、地上の生涯と死、そして苦難を経験してくださったゆえに、物質をはじめから悪と考えることはしません。しかし、だからといって、人間が罪や過誤から無縁であると言うのではないのです。最大の問題は、神の善なる創造にもかかわらず、人間が自由な意志によって、繰りかえし罪を犯すということです。ここからの救済の問題は、聖書の主要な主題の一つとなります。
さて、話しが少しわき道にそれましたが、教会は、自身が受肉のキリストへの信仰を保持する限り、地上の可視的なあり方を、どうでもよいものとしてではなく、むしろきわめて重要なものと捕らえます。したがって、職制という可視的教会のあり方も、どうでもよいものではなく、教会の頭(かしら)である主の御旨にもっともふさわしい制度を整えようとします。特に改革長老教会の伝統の諸教会は、「御言葉によって絶えず改革される教会」という合言葉によって、各個教会の制度だけではなく、地域の諸教会、全国の諸教会の制度形成を教会によっての重要な課題と受止めてきました。
例えば、スコットランドの教会は、16世紀に宗教改革を経験します。その際、ローマ・カトリック教会の制度を打ち壊して、プレスビテリーと呼ばれる地域教会の会議を形成していきます。ジョン・ノックスは、スコットランド全地の人々の救いをめざして、主の体なる教会、すなわち真に御言葉が説教され、正しく聖礼典が執行され、教会の訓練が実践される教会の形成をめざしました。このようなプロテスタント諸教会の伝道と教会の形成の努力、しかも地域や一つの国の中での諸教会の協力と一致による伝道と宣教の協力があって、わたしたちが今プロテスタント教会に連なる恵みを与えられています。
今、日本基督教団の諸教会の伝道力が急速に衰えています。受洗者が減り、礼拝出席者が激減しています。全体的には、教会の財政も大きく下降しています。教会には、若者が減り、高齢化は一目瞭然です。わたしは、高齢の方々が、礼拝に出席し、教会を支えてくださる姿を本当に頼もしく、嬉しく思っていますが、やはり課題は、これから10年、20年すると、それらの教会の中心を担ってきた方々が長老や執事、役員を退いた後、教会を支える人々がいなくなるということです。この課題にどう取り組むかが、次世代の教会の最大の課題でしょう。
3 21世紀の教会の使命-伝道と地域宣教協力の可能性
教会の本質から見ても、教会が各個教会に留まらずに、各地域で地道な宣教、伝道協力をしていくことが重要です。特に、日本基督教団という特殊な「合同」教会の現実を前にして、つまり、教会の座標軸が一つも定まることなく、歴史を刻んできた教会の現実を前にして、わたしたちはいったい何をなすべきかを考えることが求められます。
わたしは、理想主義者でも、現実主義者でもありません。現実において、プロテスタント教会が、伝道と協力のために、なすべきことをなすことができるところから始めるべきだと考えています。
第一に、各個教会は伝道することができます。牧師と長老会、執事会、役員会、教会員一人一人が、自分の救いの喜びと復活の主の生命に与っているすばらしさを伝えることができます。伝道には、何の準備も要りません。主イエス御自身の直接の伝道命令(マタイ28:19、ガラテヤ1:16)を聞けば、それで十分なのです。誰に相談する必要もありません。人々を礼拝に招き、御言葉のところに誘えばよいのです。主の言葉の力は、コリント(Ⅰ)14章24節以下に示されているように、未信者をも、ひれ伏させて、「まことに、神はあなたがたの内におられます」という信仰告白に至らせます。同時に、各個教会は、役員会や長老会で、どのような地域伝道がもっとも効果があり、自分たちの教会にふさわしいかを祈り求め、知恵を出し合うことができます。さらに、教会の牧師交代や困難という試練に直面したとき、協力して、同じ信仰、一致した教会理解があるところに、真の協力が生まれます。
第二に、伝道によって教会に導かれた人々がキリスト者になるのは、礼拝に定期的に出席し、洗礼を受けることによります。であるならば、伝道は、礼拝の整頓から始まります。もちろん、わたしたちの捧げる礼拝は、神奉仕(ゴッテス・ディーンスト)というドイツ語からもわかるように、神がわたしたちに奉仕をしてくださったところに出発点があります。神の働きかけ、聖霊の注ぎなしには、礼拝は成り立ちません。しかし、神奉仕が、神がまず奉仕して下さる出来事であるという認識を持つとき、わたしたちも襟を正して、その恵みに答え、主の日ごとの讃美と感謝の礼拝を神の御心に最もふさわしいものとして整えようと努力します。礼拝の順序や讃美の姿勢、礼拝そのものの意味を十分知っているか、信仰告白の理解、司式者、説教者、奏楽者、それぞれの礼拝に臨む心構えと訓練など、わたしたちには、新来会者を迎えるためにも、多くの考え実践すべき課題を与えられます。
第三に、地域の諸教会が協力して、伝道することができます。限られた数の教会であっても、複数の教会が集まり、牧師会、長老・執事研修会、全体協議会などを毎年開催し、積み重ねを行なうことができます。遅々として進まないように時には思える伝道協力が、思わぬ実を結ぶこともあります。地域の諸教会のために、祈り労力を提供することは、教会にとってきわめて重要なことなのです。つまり、個人の信仰生活と同じように、教会にも、各個教会の信仰生活があります。いつのまにか、独りよがりで、自己中心的な各個教会的信仰生活に陥らないためにも、つまり、最初に述べた真の教会のしるしが明確になるためにも、地域の諸教会の協力はとても大切です。
さらに、日本基督教団や教区が本当の意味で、信仰において、職制において一致して協力できない現状では、何より、地域の諸教会の協力と祈りが不可欠なのです。地域の概念は、新型コロナ・ウィルスの感染拡大によって、大きく変化しました。オンラインで結べば、地域は、日本全国、時には日本を超えた諸外国の教会との連携をも視野に入ってきます。教会は、自分の教会だけで完結した教会であると考えた瞬間に、堕落し、世俗化します。対面であってもオンラインであっても、自分の教会の問題を他教会と共有することが世俗化や各個教会主義化を防ぎます。
最後に、わたしたちが、三位一体の神を信じ、聖霊の力と働きを信じることは、教会が各個教会主義化するのではなくて、真に一致できる教会の群れを形成することにつながります。なぜなら、聖霊によって、イエスは主であると告白する群れが形成されるからです。その群れは、単独の教会ではあり得ません。わたしの教会の信仰告白が真実であるなら、他の同質の信仰告白共同体を自分のことのように考えるはずです。
わたしたち日本の国は、諸霊の文化と言ってもよいでしょう。三位一体の神の霊への信仰は、いつのまにか諸霊への信仰に変質していきます。諸霊の中には、人間の霊、世界の霊、悪霊すべての反キリストの霊が含まれます。神とキリストの霊、「主であり、命を与える聖霊」の信仰にかたく立った教会の形成をめざすことが、諸霊の跋扈によって苦しみ、苛まれている多くの人々への福音の伝道にとって最重要課題であると考えます。