Church Lectures

礼拝の充実

更新日:2022.07.30

1 神の民・礼拝共同体の形成

礼拝は、神と人との出会いの場です。しかも、その出会いが神ご自身の働きかけによって起こります。ドイツ語で礼拝のことをゴッテスディーンスト(Gottesdienst)と言います。この言葉の意味は、「神奉仕」ということです。わたしたちが神に奉仕することではなくて、神が奉仕して下さるということです。これは礼拝の本質を言い表しています。神がわたしたち人間に仕えてくださるという驚くべき出来事が、礼拝の本質です。このことを神学的に言うと、神が、父・子・聖霊なる三位一体の神ご自身の交わりに参与することをわたしたちにゆるして下さっているということです。本来なら、神は天におられ、わたしたち人間は地に存在するゆえに、交わりの可能性はありません。しかし、神御自身が己を低くして、僕のかたちをとって、わたしたち人間と同じ者になってくださいました(フィリピ2:6~11)。つまり、神が奉仕してくださったゆえに、わたしたちの罪が赦され、神との関係を回復していただき、「イエス・キリストは主である」と公に宣べ伝える礼拝の言葉が与えられたのです。本日の「礼拝の充実」という主題を考えるときも、まず、礼拝の真の主宰者は、神ご自身であるということを考えることが大切です。わたしたちの創意工夫や熱心さによって、礼拝が「充実」したものになるのではないということです。

教会は、礼拝する共同体・礼拝する民として歴史の中で形成されてきました。それは、すでに旧約聖書の時代に始まりました。神はイスラエルを選び、救いの約束を与えられました。申命記7章6~7節には、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」と記されています。そして、このイスラエルの民が、申命記6章4節以下に記されているように、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」唯一の神を愛するように命じられています。古代イスラエルでは、神殿で祭儀を伴う礼拝が行なわれ、さらに神殿崩壊後には、各地のシナゴーグが礼拝の場所となりました。キリスト教の礼拝は、このユダヤ教のシナゴーグの礼拝から影響を受けています。しかし、決定的な違いは、キリスト教会では、十字架上で苦しまれ、復活された主イエス・キリストが神の御子として崇められ讃美されるようになったことです。また主の復活を記念する日曜日の朝が、礼拝の時とされ、安息日として守られるようになりました。三位一体なる神の礼拝は、ユダヤ教の礼拝とキリスト教の礼拝を決定的に分けるものとなります。

礼拝において、神ご自身の御業と人間の救いの約束が告知されます。それゆえ、礼拝には罪赦された人間の喜びと安らぎがあります。不信仰から信仰へと変えられた感謝があります。Ⅰペトロ1章8~9節には、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない喜びに満ちあふれています、それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」と記されています。「信仰の実りとしての魂の救い」に与っているゆえに、礼拝には喜びが満ちています。

このような礼拝を成り立たせているのは、わたしたちの特別な経験や魂の高揚ではなくて、神ご自身です。『ジュネーヴ教会信仰問答』は、「人生の目的は何ですか」(問1)に対して、「人をお造りになった神を知ることです」と答えます。さらに、問2では「そのように言う理由は何ですか」に対して、「神が私たちを創造され、この世界に置かれたのは、私たちによってご自身が崇められるためでありました」と続きます。神ご自身の主導権によって、わたしたちは自分が神を礼拝するための人生を備えられたことを知るのです。

新約聖書は、「新しいイスラエル」としての神の民が、礼拝を捧げるべきことを記しています。例えば、ローマの信徒への手紙12章1節には、「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と記されます。「自分の体を・・献げる」とは、わたしたちの全存在を献げるということです。神がわたしたち人間に仕えて下さったのですから、わたしたちも全存在を献げるようパウロは勧めるのです。   またヨハネによる福音書4章24節は、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は霊と真理をもって礼拝しなければならない」と記します。「神は霊である」という言葉は、Ⅱコリント3章17節「主とは“霊”のことです」に呼応します。礼拝は、わたしたち人間の霊が、神御自身の愛のご支配に服する時です。十字架上で死に、陰府に下り、復活して、高挙された主イエスが、姿を見えないけれど、わたしたちの教会に働き続けてくださるゆえに、聖霊に満たされた礼拝が可能になります。そこでは、人間の霊は静まって、ただ天に霊としておられる主の現臨を信じ、告白するのです。さらに、コロサイの信徒への手紙3章16節は、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」と勧めます。この箇所は、わたしたちキリスト者の信仰生活の基本を示してくれます。キリストの言葉を内に豊かに宿らせ、互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌をもって感謝を捧げる生活とは、礼拝を中心にする生活に他なりません。このような礼拝の共同体は、どんなに小さなものであっても、神が約束してくださったように、御子主イエス・キリストが臨んでくださいます。マタイ福音書18章20節が、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と主の言葉を記す通りであります。

 

2 礼拝する神の民である教会の土台

礼拝する共同体である教会の土台は、十字架上で死なれ、三日目に復活し、天に昇られ、神の右に座して今もそこから聖霊を注ぎ続けて下さる主イエス・キリストにあります。その意味で、教会は天に揺るがぬ基礎を持ちます。Ⅰコリント3章10~17節には、「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」との御言葉が記されています。教会は、その長い歴史の中で、天の父なる神、神の御子イエス・キリスト、そして聖霊なる神こそ、教会の土台となる信仰の核心であると考えてきました。そして、この三位一体なる神こそ、聖書が証言する神です。古代の教会は、洗礼式を行う時、「父・子・聖霊なる神を信じますか」と試問する信条を用いました。さらに、その試問信条が、洗礼志願者教育において整えられ、いわゆる「宣言的信条」が形成されます。わたしたちが良く知っている使徒信条やニカイア信条は、洗礼式を「生活の座」として形成された、公同(カトリック)信条なのです。

古代の教父の一人エイレナイオス(130頃~200年頃)は、次のように語ります。「そして、次に述べることが、建物の土台であり、また生命の道を確立するものであるわれわれの信仰の素描である。父である神、創られず、把握されず、不可視の方であり、すべてのものの創造者であるひとりの神、これがわれわれの信仰の、第一にして最も大切な箇条である。第二の箇条は、神の御言葉、神の子、われわれの主イエス・キリストである。この方は預言の計画に従い、また父が配置したやり方によって、預言者たちによりあらかじめ示された。そしてこの方を通してありとあらゆるものが造られたのであった。…第三の箇条は聖霊である。預言者が預言し、族長たちが神について教えられ、義人たちは義の小径に導かれたが、それらのことはみなこの聖霊を仲介としてなされたのであった。また、この聖霊は、人を神に向けて新たにしようとして、「時の終わりにあたり」新しいやり方で全地上に拡がる人類の上に注がれている」(『使徒たちの使信の説明』6『中世思想原典集成1』所収)。この三位一体の神を証言する言葉が、礼拝する民の言葉なのです。礼拝で語られる説教、そして洗礼と聖餐(サクラメント=聖礼典)は、宗教改革の時代以来、まことの教会のしるしと呼ばれてきました。

しかし、現実の目に見える教会は、争いや罪から完全に自由ではありません。イスラエルの民が、荒れ野の40年間何度も神に不平と不満を呟き続けたように、わたしたちも、救われたキリスト者でありながら、神に背き続けます。目に見える教会を受肉したキリストと同一視することはできません。しかし、教会は絶えず生けるキリストを信じ、その体に参与することによって、教会は価値あるものとされます。O・ウエーバーというドイツの改革派の神学者は、「教会に価値があるならば、それは神の御子の価値であり、教会そのものの価値ではない。教会の全権が存在するならば、それは復活者の全権である。教会が隠され、迫害され、いやしめられるならば、それは教会の主が十字架にかけられたお方であるからである」(『集められた共同体』27頁)と述べています。

ここからわかるように、教会は常に生けるキリストへの信仰を聖書と信仰告白によって確かめ、言い表してきました。したがって、可視的教会の土台は、聖書と信仰告白(信条)であると言い換えることができましょう。この土台によって、わたしたちの教会が常に新たに生み出され、改革されていく教会です。宗教改革の教会は、「改革された教会は、常に御言葉によって改革され続ける教会である」という自己規定を行ってきました。聖書と信仰告白に拠って立つがゆえに、現代社会にあって大胆に積極的に休まず伝道を続け、主の復活の喜びに生きることができると思います。ですから、聖書と信仰告白という規範を欠いたところに教会は形成されませんし、また神の民としての礼拝も整えられることはありません。わたしたちは、「礼拝する民の一員」として、わたしたちの教会のあり方や教会の本質をしっかりと知る必要があります。

 

3 伝道する教会の形成

礼拝と伝道は密接に結び付いています。なぜなら、礼拝から押し出され、派遣されてわたしたちは伝道に赴き、同時に伝道によって、人々を礼拝に導くからです。カトリック教会のミサという言葉は、イテ・ミサ・エスト「さあ、行きなさい」という意味の派遣の言葉に起源があると言われています。礼拝において、神の御言葉を聴いた者は、この世界に派遣されて、家族生活を営み、経済活動に勤しみ、伝道のわざに励むのです。ですから、礼拝する民の一員として、わたしたちは伝道のためにも祈りと力を合わせます。

さて、礼拝する民・教会は絶えず途上にあります。すでに完成した教会、出来上がった教会などというものはありません。使徒パウロは、自分自身を振り返りながら、「わたしは既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです」(フィリピ3・12)と書きました。パウロは、信仰者としての自分自身のあり方を語っていますが、信仰者のあり方は、教会のあり方でもあると思います。

教会がすでに完成してしまったと考えることは、伝道する教会の姿勢を弱めるとともに、礼拝する姿勢を失わせます。それこそ、パウロがコリント教会の中に見出した、グノーシス主義的な傾向を持つ人々の陥った過ちを繰り返すことになります。つまり、キリストに出会って、救われたわたしたちは、すでに知恵の奥義に与って、救いへと完成されたのだという傲慢は、わたしたちから福音の恵みに生きる喜びを失わせ、伝道に生きる姿勢を奪うことになります。

しかし、途上にある教会は、救いの確信を持っていないのではありません。いや反対に、主イエス・キリストの十字架と復活の信仰に生きるからこそ、礼拝における御言葉を通して、その方の現臨に触れ、罪の赦しと救いの確信を日々新たにされることによって、かえって現在の教会共同体の貧しさと信仰者としての「不完全さ」を知らされるのです。

キリストに出会ったがゆえに、自分はもう完全なものとされたと誤って考えるところには、「滅び」があります。そこでは、己が「腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えない」(フィリピ3・19)人間の罪が信仰者と教会を覆い尽くしてしまいます。その結果、礼拝は生命を失います。また、教会の形成と伝道は切り離され、主の再臨までの「目を覚ましている僕」(ルカ12:35以下)の生き方を忘れてしまうことになります。もう少し、具体的に言えば、教会を完成したものと考えると、わたしたちはしばしば、教会に対して、「第三者的不満」を漏らすことになります。この教会はこういう欠点がある、この教会は自分が思い描いていたのとは違う、この教会は、わたしには良くしてくれない・・。自分自身が教会共同体の一員であることを忘れ、「完全」と思っていた教会の欠点に気付きはじめると、際限のない要求と不満が噴出します。そこでは、神が奉仕して下さるという驚くべき出来事への畏れが消え、いつのまにか教会は自分に仕えてくれる共同体であり、礼拝の主人は自分になってしまいます。

わたしは、礼拝生活を送る者の姿は、主人の帰りを今か今かと待ちつづける僕の生き方に通じるものがあると思います。時が良くても悪くても、自分の家を整え、礼拝を捧げ、まことの主が誰であるかを、主が再び来られるときまで、わたしたちは宣べ伝える責務が委ねられています。その責務を回避するとき、突然の主の来臨によって、わたしたちは審きにさらされることになるでしょう(ルカ12・47)。復活の主ご自身が、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・19~20)と弟子たちに命じられました。この主のご命令は、わたしたちの教会にもなお向けられているのです。わたしたちが、キリスト者となり、教会に加えられたのも、この命令を聞いて実行した先輩のキリスト者の伝道によります。この恵みをわたしたちも、多くの人々と分かちたいと思います。恵みをわかつ場所は何より、教会の礼拝なのです。

 

4 礼拝の恵みをわかつ喜び 

コリントの信徒への手紙(Ⅰ)十四章二十四節以下に、「皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』皆の前で言い表すことになるでしょう」と記されています。この出来事は、礼拝における預言の言葉(説教)が、未信者にも礼拝の姿勢を与え、罪の悔い改めへと導くことを示しています。礼拝の恵みをわかつことができるのは、ただ洗礼を受けた者だけではありません。未信者もまた主の言葉の権威の前に畏れひれ伏すのです。礼拝を通して、年齢や国籍、さらに人生経験などにまったく関係なく、主の復活の恵みにすべての者が与る喜びを経験します。

「この喜びをわかつ経験を多くの人々としたい」、そういう思いが、家族への伝道、地域への伝道、そして自分自身の教会や全体の教会の形成への情熱と結び付きます。そして、この願いや情熱は、決して「から元気」を出すということではありません。復活の主の生命に生きるゆえに、わたしたちは、決して落胆せず、信仰と希望と愛をもって、終わりの日まで信仰者として歩みます。

 

5 わたしたちの教会の礼拝を考える

はじめに指摘しましたように、礼拝の真の主宰者は、神御自身です。しかし、そのことを十分わきまえた上で、主の日ごとの礼拝に全責任を持つのは役員会や長老会であることをよく理解しておくことが大切です。改革長老教会の伝統では、長老は、教会総会において選挙によって選ばれますが、民主的ルールの結果多数の支持を得て当選したから責務を果たすというのではありません。むしろ、選挙という人間のわざによって、神のご意志が示され、教会の群れを主の言葉に従って導き、神の御旨にもっともふさわしい秩序を整える責任を委ねられた人々なのです。長老の職務は、何らかの特権や名誉ではありません。主御自身が奉仕してくださったことを模範として、長老会は率先して主に仕えます。この場合、主に仕えるとは、主の御言葉を聴くということです。しばしば、わたしたちの教会では、長老が礼拝で最前列に座るのも、そのような考えからです。また長老会は、牧師が語る説教にも責任を持ちます。牧師の説教が聖書と信仰告白という規範から外れるようなことが起これば、牧師を諭したり指導したりするということもあり得るのです。しかし、逆にいえば、そのために長老会が十分な聖書と信仰告白の知識を持ち、神学的な見識も備えていなければならないということになります。

礼拝は説教だけで成り立っているのではありません。前奏から後奏までの流れを持ち、全体が讃美と頌栄の姿勢で貫かれます。アメリカ改革派教会などでは、礼拝そのものをハイデルベルク信仰問答やローマの信徒への手紙の構造と平行させて、罪の悔い改め、赦しの宣言、御言葉、献身、派遣など礼拝の構造を際立たせながら、礼拝各部の意味付けを積極的に行っています。

わたしたちの日本の教会はきわめて簡素な礼拝順序を持ち、いわゆるリタージカルな礼拝とはなっていません。日本キリスト教団の諸教会の中には、諸外国の教会のリタージカルな礼拝刷新の動きをとり入れて、礼拝を活性化しようという試みもあります。もちろん、新しい試みをして、礼拝の改革をすることはいつの時代にも必要です。しかし、それらの試みが、最初に述べた礼拝の神学的な理解を欠いて、自分勝手な恣意的な変更であるなら、礼拝改革は成功するとは思えません。

しかし、宗教改革が礼拝改革であったと言われるように、わたしたちの教会、長老会、執事会、そして教会員一人一人が、礼拝の順序や内容、意味付け、讃美歌、信条などに親しみ、それらをよく理解し、必要がれば長老会の責任で礼拝改革を行うことは大切なことです。礼拝で、十戒を唱和する教会もあるでしょう。カルヴァンの教会では、そのようにしました。また聖餐のある第一主日にはニカイア信条を朗読することも考えられます。どの礼拝順序がベストであるということは言えませんが、各教会が、礼拝刷新の共通した熱意と学びを行うことは大切だと考えます。その結実として、教会規則や礼拝指針の作成など、地道な作業ですが、教会を法的に支えるものを、教会のわざとして形成することも大切でしょう。それらを作成することは、信仰告白の理解や位置付け、職制の問題、説教や聖礼典の意味など、教会にとってもっとも重要な事柄を理解し深めることにつながります。

このような作業もまた、三位一体の神を讃美頌栄する礼拝の姿勢から生み出されます。つまり、礼拝の姿勢が、教会のあらゆる営みに漲るとき、わたしたちは、礼拝する民の一員として、恵みに感謝し喜びをもって神の民の形成に参与する自覚が与えられるのです。

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