Church Lectures

歴史の中の聖書

更新日:2022.07.23

関川泰寛

キリスト教と言えば聖書と誰もが連想します。しかし、キリスト教の長い歴史の中で、聖書がどのように読まれ、用いられてきたかは案外知られていません。そこで古代から宗教改革の時代に至るまで、聖書がどのように読まれ、用いられたかを概観してみましょう。その上で、古代教会と聖書、宗教改革と聖書の福音の再発見―ルターとカルヴァンをめぐってと2回にわけてお話しします。追って、「中世キリスト教世界と聖書」については、HPに掲載します。ご期待ください。

 

神の言葉としての聖書と聖書解釈 

古代の教会は、グノーシス主義やマルキオンに抗して、旧新約聖書66巻を閉じた正典(カノーン)として受け容れます。しかし、聖書正典の形成は、外的な要因に対して教会が聖書正典を定めたのではなくて、むしろすでに教会で読まれ、重んじられてきた書物を神の言葉として受容していくプロセスです。教会は、神の霊感を受けた書物として聖書を理解し、それに基づいて説教を行い、洗礼と聖餐を執行する共同体として、地中海世界に伝播していきます。

神の御子イエス・キリストの救いの出来事を証しする書物である聖書を読んで説教するためには、聖書を解釈する必要が生じます。古代では、アレゴリカルな聖書解釈を行ったアレキサンドリア学派と字義的解釈を行ったアンティオケ学派の二つがありました。

さらに聖書をどのように理解するかという聖書論も考察されました。オリゲネスやアタナシオスは、聖書全体の「意図」とか「目的」(スコポス)を重視し、聖書のテキストを切り刻むように分解してしまうのではなくて、聖書全体の使信に照らして各テキストが読まれるべきだと考えるようになります。

 

中世キリスト教世界と聖書

 中世のキリスト教世界では、主として修道院で数多くの聖書の装飾写本が作られました。それらは、個人が読むためのものではなく、修道院の食堂や聖堂に置かれるためのものでした。

聖書は、一握りの修道士と聖職者のものでした。修道院の塀の中で、聖書の注釈が作られ、聖書の言葉に導かれて日課が行われていました。中世はかつて暗黒時代と呼ばれましたが、実際には、大変優れた修道院の文化が存在しました。その中核に聖書がありました。シトー会のベルナルドゥスのような優れた説教者が出たのもこの時代です。

13世紀になって托鉢修道会が、都市の民衆たちのところに出向いて説教をするようになりますと、修道士たちの衣のポケットに入るほどの携帯聖書の写本が作られました。しかし、未だ誰もが手にすることのできる書物ではありませんでした。聖書が大量に印刷されて、一般に流布するようになったのは、15世紀半ばのグーテンベルクによる活版印刷技術の発明によります。宗教改革は、このような技術革新に支えられながら、聖書の真理、福音の再発見という出来事として16世紀に起こります。

 

福音の真理の再発見

宗教改革は、腐敗堕落したローマ・カトリック教会を批判したルターによって始まります。ルターは、新約聖書ローマ書から、人間が義とされるのは、行いによってではなくて、信仰によるということを再発見します。宗教改革者たちは、教会の本質は、教皇を頂点とする聖職者の位階にではなくて、聖書が純粋に説教され、聖礼典(サクラメント)が正しく執行されるところにあると考えるようになりました。聖書と伝統が同等の位置に据えられるのではなくて、聖書を基礎として、すべての教会の教えや営みがなされる教会の建設が始まります。

自国の言葉に翻訳された聖書は、やがて大量に印刷されて人々の間に流布し、誰もが聖書を読むことのできる時代へと突入します。優れた聖書翻訳者、原典の校訂作業、そして聖書注解者と説教者などによって、プロテスタント宗教改革は担われます。ちょうど飼い葉桶に眠るイエス・キリストを見いだした東方の博士たちのように、彼らは聖書の中に横たわる神の子イエス・キリストを再発見したのです。そこに福音があり、その喜びに生きる教会の建設を目指しました。

 

Ⅰ 古代教会と聖書―多様な聖書解釈と説教

1 正典の形成

古代地中海世界に拡がって行ったキリスト教は、2~4世紀にかけて、聖書を正典(カノーン)として結集していきます。新約聖書諸文が成立するのは、1世紀半ばから2世紀半ばにかけてですが、それらは、神の霊感によって書かれた神的書物として教会で読まれ、信仰の規範として特別な書物としての位置を与えられていきます。

この正典結集の過程で、信仰の規範にはふさわしくないと考えられた諸文書が、正典には入れられずに排除されていきます。

新約聖書の正典化の動機と原因が何であったかは、さまざまな議論があります。歴史家は、グノーシス主義やマルキオン主義、さらにはモンタノス主義などの外的な要因が正典の形成を促したと考えます。確かに、外的な要因の作用は無視できないものですが、教会は、正典を自分たちが作りだしたものではなくて、神より与えられたものとの認識を深めていきます。

古代の教会は、聖書の諸文書の成立には、神の霊的な導きがあったと信じ、それまで神の言葉として重んじられ読まれてきた文書を、神の与えた文書として受容するという理解に立ちました。

残存する史料から、正典形成の歴史を逐一辿ることは容易ではありませんが、エイレナイオスの著作やムラトリ断片などの文書から、3世紀までには、四福音書が選ばれ、パウロ書簡やその他の文書が結集され、4世紀半ばのアタナシオスの「復活祭書簡39」から、現在の27の文書が新約聖書として、神の霊感を受けた神的書物であり、わたしたちの救いの源であると認識されるようになったということはほぼ確実にわかります。

 

2 七十人訳聖書の重要性

古代教会では、2世紀までは、旧約聖書と新約聖書から成る聖書という理解は、未だ存在していませんでした。聖書と言えば、「旧約聖書」であり、それに主イエスの言葉やパウロの書簡等が加えられていました。それらは、一つのまとまりを未だなしておらず、正典として結集されたものではありませんでした。

七十人訳聖書(セプチュアギンタ、LXXの略号で表す)は、紀元前3~1世紀にアレキサンドリアで訳された旧約聖書のギリシア語訳聖書のことです。この聖書の翻訳が72人の長老たちによって72日間で為されたことは、伝説的な物語によって伝承されています。この物語がどこまで史実に即しているかは議論がありますが、七十人訳聖書もまた、神の霊感によって成立したという理解が、伝説にはよく表れていることも事実です。

七十人訳聖書は、39の旧約正典文書とともに、マカバイ記、シラ書、トビト書、ユディト記、バルク書などの独自の文書を含んでいました。

古代の教会は、現在のイスラエルから始まって地中海世界に伝播していきますが、地図の東側つまりギリシア語圏では、聖書と言えば、七十人訳聖書のことでした。新約聖書を書いた人々も、また2~4世紀の教父たちも、主として七十人訳聖書から旧約聖書の言葉を引用しています。

 

3 ヒエロニムスによるラテン語訳聖書

4世紀末になると、ヘブライ語とギリシア語で書かれた聖書は、古代地中海世界の西半分の言語であるラテン語に翻訳されます。この翻訳を行ったのが、ヒエロニムスという人物でした。ヒエロニムスのラテン語聖書は、ウルガータと呼ばれ、その後西方キリスト教世界の聖書となり、宗教改革の時代まで千年に及ぶ長い年月、教会の典礼で使われました。

ヒエロニムスは、342年頃北イタリアに生まれ、ローマでラテン語の文法を学び、その後パレスチナなどを旅行して、ギリシア語やヘブライ語に習熟し、366年から84年までローマ教皇ダマススに仕えて秘書のような役割を果たしました。その間に聖書テクストの改訂に着手し、写本間の異同などを明らかにして信頼できる写本の確定などに尽力したことが知られています。

当時のローマ教会は、ギリシア語聖書とともに「古ラテン語」版と名付けられたラテン語聖書を使用していました。しかし、この聖書は、訳語に一貫性を欠くとともに、誤りが多く、改訂の必要が望まれていました。ヒエロニムスは、教皇ダマススが死去した後、再び旅に出ます。北アフリカ、アンティオケ、パレスチナを経て、ベツレヘムに到着して、そこに滞在しました。386年頃のことと考えられます。ベツレヘムで、彼は修道院の指導者となり、聖書全体の翻訳を行い、30年の歳月を費やしたのです。ヒエロニムスは、そこで写本を収集し、その異同を引き続き調べて、本文確定にあたりました。オリゲネスの「ヘクサプラ」(6段組みの聖書、1段目はヘブライ語、2段目はギリシア語のアルファベットに書きなおされたヘブライ語聖書、3段目~6段目は、4つの異なるギリシア語訳)によって、アクィラ訳、シュマクス訳と呼ばれた、ヘブライ語からギリシア語に訳された聖書を手にして、相互比較することができたのです。380年代に、これら種々の写本を手にしたヒエロニムスは、はじめはギリシア語の諸般を照合しながら、翻訳を進めますが、やがて直接ヘブライ語からラテン語に翻訳する必要を感じ、390年頃からその作業に取り掛かることになります。約15年をかけて、この大作業にあたります。9~10世紀までのヘブライ語写本は現存していないので、ヒエロニムスが、どのようなヘブライ語原典を用いたかは必ずしも明瞭ではありません。

先に述べたように、ヘブライ語正典には、トビト書、ユディト書、ソロモンの知恵、ベン・シラの知恵、マカバイ記Ⅰ・Ⅱ、バルク書が含まれていなかったので(これらは七十人訳聖書を含む主要なギリシア語訳聖書には含まれていました)、ヒエロニムスは、これらをアポクリファ(外典)として正典とは別な地位を与えました。

しかし、その後ローマ・カトリック教会は、これら外典をもとの地位に戻し、「古ラテン語」版の翻訳のまま、正典に回復させることになります。こうして、中世を通じて、ローマ・カトリック教会の聖書となる「ウルガータ」(「民衆の」というほどの意味)聖書が成立します。

 

4 古代教会における聖書の位置と解釈

キリスト教は、2~4世紀にかけて、古代地中海世界の諸都市を中心に伝道をして、教えを広め、信仰者を獲得し、さらには各地に教会を形成していきます。教会は、聖書を正典として位置付け、その信仰とともに制度形成へと向かいます。正典(カンーン)と信仰(クレドー)そして職制(オルドー)が、可視的教会を形成する三つの座標軸となっていきます。

古代の教会は、聖書を主の日の礼拝で朗読し、指導者(長老、監督)がそれを説教しました。人々は、説教された聖書の言葉を神の言葉として受け入れ、そこに神の霊の働きがあると確信しました。

古代のキリスト教会は、時に激しい迫害に耐えながら、また時に当時の地中海世界の宗教思想や価値観と対峙しながら、自分たちの信仰を弁証しました。特に2世紀後半になると、「迷信の徒」「人肉を食らう人々」などと中傷・誹謗されたキリスト教会に対して、ローマの知識人たちも本格的なキリスト教批判を始めます。

そのような中で、教会はロゴス・キリスト論を提示して、救済史の一貫性を語ることで、旧約と新約を積極的に結び付け、ロゴス概念によって受肉や救済の神学的な教えを体系的に説明する努力を重ねていきます。

特に、地中海世界に拡がっていたグノーシス主義を退け、論駁することで、ますますキリスト教信仰の独自性と意義を鮮明にしていきます。グノーシス主義は、ユダヤ教の周縁から起こって来た思想ですが、旧約の創造主と新約の救済者である神を峻別することで、救済史の一貫性を批判するとともに、より劣った創造主(デミウルゴス)が過誤から創造した世界を悪しき場所と理解し、救済は世界から離脱して、より高次の真の神の認識(グノーシス)にあると宣伝しました。これらグノーシス文書は、戦後間もなくエジプトで発見されたナグ・ハマディ文書にコプト語で残存しています。

2世紀半ばの弁証家の一人ユスティノス、2世紀後半のエイレナイオス、テルトゥリアヌスらは、いずれもグノーシス主義の思想や正典理解を論駁しつつ、キリスト教信仰と教説の正当性を積極的に語りました。

グノーシス主義的な立場をとる人々は、マルキオンのように自分の教説に都合の良い聖書文書を取捨選択する立場(ルカによる福音書とパウロ書簡からなる限定された諸文書で「マルキオン聖書」と呼ばれることもある)か、あるいは広義のグノーシス主義者たちのように、文書をさらに拡大して行く立場をとることになります。

異教と異なる教えに取り囲まれた古代教会は、聖書を礼拝の中で朗読し、それを会衆が熱心に聴くとともに、正しく説教を行うための聖書解釈を提示していくことになります。

古代教会の聖書解釈には、大きく分けて二つの流れが存在しました。第一は、シリアのアンティオケを中心に発達した字義的な聖書解釈です。これは、ヨハネス・クリュソストモスに代表されます。聖書を字義通りに理解し、説教するというものです。第二は、アレキサンドリアを中心に広まった聖書解釈で、アレゴリカル(寓喩的)聖書解釈です。これは、オリゲネスによって採られた解釈で、人間の身体の三分法(肉体・魂・霊)に従って、聖書の字義的意味のみならず、魂にかかわる道徳的な解釈、さらには高次の解釈として霊的解釈(アレゴリカルな解釈)を重んじました。この解釈によって、例えば旧約聖書の「雅歌」の説教などを深く行うことができるようになります。

古代教会は、すでに聖書の多様性を知っていました。四福音書の異同や史実の誤りなどがあることも自覚していました。それにもかかわらず、聖書は、全体として統一ある神的書物として読まれるようになります。オリゲネスやアタナシオスは、「スコポス」という言葉をよく使いました。それは「意図」とか「目的」というほどの意味です。聖書全体が、神と神の御子イエス・キリスト、そして聖霊を指し示す点では、共通の「意図」や「目的」があり、これを確実に聴きとり、礼拝において明らかにすることが大切であると考えました。

 

5 古代教会における正統と異端論争と聖書

311年まで迫害の嵐に中にいた教会は、313年のコンスタンティヌス帝のミラノ寛容令によって、事実上ローマの公認宗教となります。さらに4世紀末には、テオドシウス帝によってローマの国教となります。

キリスト教がローマの宗教となる時代に、キリスト教はキリストをどのように理解するかという問題で、分裂状態になります。特に318年から始まるアレイオス論争は、公認されたばかりのキリスト教を二分することになります。

論争の発端は、アレキサンドリアの司祭アレイオスが、「御子は一被造物であり、存在しない時があった」と主張したところから始まります。時のアレキサンドリアの司教アレキサンデルは、アレイオスに自説の撤回を求めますが、アレイオスとその一派は自説を撤回するどころかかえって反発したので、司教は彼らをアレキサンドリアの町から追放してしまいます。こうして、古代のキリスト論論争が始まりますが、この論争は教会を二分するとともに、その後のキリスト教の歴史に大きな影響を与えていきます。

この論争では、それぞれの陣営が独自の聖書理解に基づき、自説を導きだしたことがわかります。例えば、アレイオスは、箴言8章22節「主は、その道の初めにわたしを造られた」に依拠して、知恵であるロゴス(御子)の被造性を主張しました。これに対して、アレキサンデルの後継者、アレキサンドリアの司教アタナシオスは、御父と御子との同質(ホモウシオス)こそ、聖書の中心的な使信であるとしました。

最近の研究では、異端と呼ばれた人々は、聖書から離れて行った人々ではなくて、聖書に恣意的な解釈を加えて、先の聖書全体の「意図」や「目的」(スコポス)を見失った結果生じたと考えられています。アレイオス派は、箴言8章22節などを数少ない典拠として自説を広めましたが、聖書全体から読んでいくならば、到底認められない解釈へと逸れていきました。このような異端を論駁するためには、聖書全体のスコポスからの解釈が求められるとともに、当時の教会の礼拝の慣習が重要な解釈の基礎となったのです。

つまり、聖書は、2~4世紀にかけて、多様な聖書解釈の可能性があると認識されるようになりますが、教会は聖書を規範としながら、同時に教会の礼拝での慣習や聖書全体からの使信を導きだしていきます。この時代に形成される信条もまた、聖書という規範から導き出された信仰の言葉が、聖書のスコポスを明示する役割を負いました。

 

6 古代教会の礼拝と説教、聖餐と洗礼

古代のキリスト教は、迫害下にある時代から一貫して、礼拝共同体を形成しました。礼拝では、聖書が読まれ、讃美歌が歌われ、説教がなされるとともに、聖餐が執行されました。

洗礼と聖餐は、主イエス・キリストご自身が命じられたものとして、目に見える物素を通して、復活し高挙された主イエスを指し示す言葉と理解されました。同時に、説教もまた目に見えない言葉を通して、主イエスの現臨を証ししました。

2世紀後半から3世紀半ばにかけて、教会は洗礼志願者教育の制度を整え、カテキズムによる信仰の養育に力を注ぎ、洗礼に至るまでの訓練を行いました。つまり、古代教会では、ただ大衆に伝道したというよりも、聖書に基づく教えを要約して洗礼志願者に伝え、その言葉によって実際に洗礼を施したのです。

また、聖餐は、復活に主の体に与る奥義とされ、洗礼を受けた者だけが、パンとブドウ酒をいただきました。

古代教会では、司教たちが主として、聖書の講解と説教を行い、さらには注解書を執筆しました。アレキサンドリアのオリゲネスは、生涯にわたって、聖書全巻を注釈し、講解するとともに、説教したと伝えられています。

残念ながら、その多くは失われてしまいましたが、なおヨハネによる福音書、ローマの信徒への手紙、雅歌の講解などが残存しています。アレゴリカルな説教は、しばしば聖書を恣意的に捻じ曲げているのではないか、現代人には通用しない解釈ではないかと言われます。しかし、オリゲネスによって展開された解釈は、中世のベルナルドゥス等に継承され、教会の聖書解釈と説教の重要な遺産となっていきます。

古代の司教たちは、説教を大切なつとめとして自覚していました。「クリュソストモス」(黄金の口)と綽名された、コンスタンティノポリスの司教ヨハンネスは、「聖書という宝庫によってあなたがたを養うことなしに一日といえども過ごさせるわけにはいかない」と語っています。ミラノの赴いたアウグスティヌスが、当時のミラノ司教アンブロシウスの説教を聞いて、聖書の真理の深さを知らされ、回心へと導かれたことも知られています。アウグスティヌスのは、長い魂の遍歴を経て、聖書が証言する神と出会い、そこに真の安らぎを見いだしたのです。

古代の説教には、いくつかの類型がありました。聖書の講話、教理教育の講話、教会暦に沿った説教、個人を記念する礼拝で語られた説教、時局に関わる説教などです。それらは、いずれも聖書個所を解釈し、それぞれの「生活の座」の中で、三位一体の神を証言する言葉として語られました。

今日、プロテスタント教会は、真の教会のしるしを「御言葉の説教と聖礼典の正しい執行」と理解していますが、古代教会は、説教と聖礼典を行う共同体として整えられていきました。宗教改革者たちは、「源泉に帰れ」(ad fontes)を一つの合い言葉としましたが、それは具体的には古代教会に範を取って教会を形成することであったのです。

 

参考文献:ブロックス『古代教会史』(教文館)、関川泰寛『ニカイア信条講解』(教文館)、『ここが知りたいキリスト教』(教文館)、小高毅編『古代教会の説教』(教文館)

 

Ⅱ 宗教改革と聖書の福音の再発見―ルターとカルヴァンをめぐって

1 宗教改革とは

宗教改革とは、16世紀初頭から始まったローマ・カトリック教会の刷新と改革の運動です。ルターの95カ条の提題から始まり、スイス、フランス、スコットランド、オランダ、イングランドなど、ヨーロッパ全土を巻き込む運動となりました。

宗教改革の進展の経過は、俗権と教会の関係、また両者の歴史的な要因によって、各地域ごとに、その様相を異にしました。

しかし、ローマ・カトリック教会の位階制度の否定、教皇の権威の否定、実体変化説の否定、聖書のみ、信仰のみの原理など、その神学には共通項がありました。「歴史の中の聖書」の最終回は、宗教改革の時代に聖書がどのように読まれ、宗教改革の推進の基となったことを歴史的に振り返ってみたいと思います。そして、プロテスタントのキリスト教(これが東京女子大学の建学の精神の基礎ですが)が、どのような特質を持つものであるかを学んでみましょう。

 

2 グーテンベルクによる印刷技術の発明

15世紀半ばの印刷技術の発明は、聖書の歴史にとっても画期的な意義を持ちました。マインツで生まれたグーテンベルクは、ストラースブールで、鏡を大量生産して一儲けをたくらみます。鏡というのは、アーヘンへの聖遺物の巡礼に巡礼者たちが持参したもので、大勢の巡礼者たちは、現代人のカメラさながらに、鏡に聖遺物の光を鏡に映して、それを持ち帰ったと言われます。しかし、この事業は失敗し、多くの借金が残ったと思われますが、それを挽回すべく、グーテンベルクは、当時の人々が聖書への強い欲求を持っていると見抜くと、聖書写本の大量生産を始めます。

すでに見たように、13世紀のヨーロッパ各地では、携帯用聖書への需要が高まります。また修道院や礼拝堂の書見台の装飾品となっていた大型聖書は、再び装丁を新たにされて、修道院の食堂に置かれて、実際に読まれるようになります。というのも、トルコ人の脅威や疫病の猛威にさらされたヨーロッパの人々は、大きな社会不安ゆえに、聖書の言葉に慰めを求め、宗教へのある種の憧れが修道院内外に高まって来たからです。宗教改革前夜のヨーロッパでは、宗教心が低下していたというよりも、一般人の間に宗教的な敬虔を求める心が広がっていたと考えられています。

打算的で投機的なグーテンベルクが、印刷機こそ、アーヘンの巡礼鏡以上に人々のニーズを満たす市場の商品であると感じたということは大いにありそうなことであります。

グーテンベルクは、聖書の活版印刷を行う前には、ローマ・カトリック教会の贖宥状印刷を請け負っていました。贖宥状とは、ローマ・カトリック教会が、諸聖人の行為によって蓄えてきた善行という財貨を、煉獄に留め置く期間を短くするという証書の購入の代価によって民衆に分配するものでした。ローマ教皇は、ドイツ国内の諸侯に対して、司教職の売買の代金支払いのための資金調達手段として、その販売を許可していました。実際その販売を請け負ったドミニコ会士テッツェルなる人物が、ルターのいるザクセン地方にやって来た時に、ルターは、その深く大きな問題性を感じた人間の一人でした。なぜなら、贖宥状を購入したものには、煉獄に留め置かれる期間が短縮されることが約束され、真の悔改めどころか、真剣な罪の意識が遠のくとともに、お金を払って贖宥状を購入するという「善い」わざが、救いと関わることを認めるようなローマ・カトリック神学は、赦しがたい冒瀆と思われたからです。

贖宥状の印刷業者が、やがて宗教改革者たちの翻訳した聖書や諸文書の印刷に携わり、印刷の技術が、聖書の印刷に活用されたとは歴史の皮肉と言わねばならないでしょう。

さて、グーテンベルクは、マインツの工房で、1455年までには聖書印刷を終了したと思われます。実際1455年11月6日付の文書には、印刷事業の共同参画者であったヨハン・フストがグーテンベルクに貸付金の2020グルデンの返済を求める文章が見られます。その金額は、グーテンベルクが800グルデンずつ、二度にわたって借り入れた金額とその利息でした。グーテンベルクは、この返済を果たすことができず、結局訴訟になって、共同事業は精算されます。グーテンベルクは、借金の返済の代わりに、抵当としての印刷機をフストに譲渡しています。

現在グーテンベルクの聖書として知られるものは、世界中に50部残存しています。二つ折り版の書物で、縦405ミリ、横295ミリの書物です。二段組で42行で印刷されたので、42行聖書と呼ばれました。どうみても携帯用聖書とは言えませんが、11~12世紀の大型聖書と比較すれば、手ごろなサイズであり、何より桁違いに安い値段で製作できました。

 

3 宗教改革の発端と聖書の真理の発見

中世の「キリスト教世界」は、16世紀初頭の宗教改革によって大きな変革を迫られます。1517年一人の修道士であったマルチン・ルターは、ウィテンベルクの城教会の門に、95カ条の提題を掲げて、ローマ・カトリック教会の教えに疑問を呈し、大学人たちに論争を喚起しました。

ルターは、当時エルフルト大学を出て、ウィッテンベルク大学で聖書を講じる修道士でありました。時あたかも、ローマ・カトリック教会の堕落と疲弊は頂点に達し、ザクセンにまで、贖宥状販売の修道士が入り込んでいました。ルターは、95カ条の第一提題を、悔改めは、一回限りにことではなく、生涯にわたるものであることを示すとともに、人間の救いは、善きわざによるのではなく、ただ信仰のみによることを明らかにしました。

ルターのローマ・カトリック教会の批判は、贖宥状販売や聖職者の堕落という面だけではなく、教会の本質や聖書理解、伝統理解、聖餐理解や救済理解などにも及びました。ルターは、1520年に出されたいくつかの文書で、ローマ・カトリックの位階制度を否定し、実体変化説を退け、聖書に対して伝統が優先して、結果として聖書の正しい解釈が失われてしまったことを批判しました。

ルターにとって、教会とは、聖職者の集団ではなくて、御言葉が純粋に説教され、聖礼典が正しく行われるところでありました。

御言葉の純粋な説教こそ、聖書の正しい理解に関わるのであり、この正しい理解を通して、はじめて聖書の語る救済に人間は与ることができると考えられました。

ルターは、晩年に出版されたラテン語版全集の序文の中で、自分はローマの信徒への手紙から、行いによる義ではなくて、信仰による義によって救われたとの確信を抱くようになったと述懐しています。しかも、信仰による義とは、受動的義のことで、信仰者の側の善い業そして、確かな信仰ではなくて、徹底的に神から与えられた所与の信仰であるとの境地に辿りつきました。

ルターにとって、聖書とはその中に生けるキリストが横たわる飼い葉桶のようなものであり、聖書をギリシア語やヘブライ語から正しく翻訳し、それに基づいて説教がなされることを求めました。

ルターは、ザクセン選帝侯のフリードリッヒ賢侯に身柄を確保され、ワルトブルク城に幽閉されている間に、書斎でドイツ語訳聖書に取りかかり、きわめて短期間にエラスムスの校訂したギリシア語新約聖書から、ドイツ語訳聖書を完成させます。

このような聖書翻訳の機運は、宗教改革者たちが持つ「源泉へ」ad fonts という思想傾向から、各地で受け容れられ、ドイツ以外でも、フランス、スイス、イングランドでも自国語訳聖書が次々に作成されていきました。

 

4 カルヴァンの宗教改革と聖書

スイスのジュネーヴの改革者カルヴァンは、第二世代の宗教改革者です。ルターなど第一世代の改革者と異なり、新しい教会共同体の秩序形成に多大な関心を寄せました。信仰告白、教会の制度(職制)形成が、聖書に基づいて行われていきました。

カルヴァンは、1536年より1559年まで、『キリスト教綱要』を改訂し、宗教改革期の神学形成に大きな貢献をしました。同時に、ほとんどすべての聖書諸文書の注解を書き記すとともに、ジュネーヴの教会で、毎週少なくとも2回は、説教をしました。失われてしまったものもありますが、なお多くの説教が残存しています。日本語に訳されているものの中で、『霊性の飢饉』からの抜粋を資料に掲げました。

カルヴァンが聖書をどのように読み、理解していたかを、もっとも良く伝えるのは、『詩編注解』の序文の文章です。ここには、詩編が「祈りの宝庫」であること、そこには人間の救いの源があることなどが述べられています。宗教改革者にとって聖書とは、それが個々人の生活だけではなく、共同体を形作り生み出す力ある言葉でありました。とりわけ、カルヴァンは、旧約聖書のイスラエルと新約聖書の教会が、ともに主なる神の救済の約束を与えられた、契約の民としての連続性を積極的に理解し、幼児洗礼や律法の問題なども、この観点から再解釈を施しました。

さらに、カルヴァンは、『キリスト教綱要』の中で、神認識を論じるにあたって、人間の罪が、神認識の可能性を自ら閉ざしてしまったゆえに、聖書が与えられて、人間と共同体を照らし出し、神認識と救済の可能性が与えられている恵みを述べています。

また、『オリヴェタン聖書の序文』では、カルヴァンの甥オリヴェタンが、フランス語訳聖書を出版するにあたり、聖書の福音とは何かを明確に述べている個所があります。カルヴァンは、聖なる福音を聴き、見、読んで心に留めることにこそ、真の希望があることをはっきりと述べています(邦訳24頁)。そして聖書の有益な用い方は次のようだと明言しています。「それは一言で言えば聖書によって神に信頼を置くことを知り、神への畏れの中に歩むことです。イエス・キリストは律法と預言者の終わりであり、福音の実質ですから、キリストが少しでも離れれば私たちが迷ってしまうことを知り、ひたすらキリストを知ることに努めようではありませんか」(34頁)。

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