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信仰告白の連続と非連続―1890年の旧日本基督教会信仰告白と教団信仰告白の関係をめぐって―
教理史から見た信仰告白の連続と非連続
すでに聖書の中に、伝えられたパラドシス(para;dosi”) の継承ということが語られている(Ⅰコリント15:3以下など)。伝承や教えの継承は、当然のことながらそれらの「連続」を前提としている。そして連続を前提とする限りは、非連続なる教えや伝承の排除が、何らかの規準によって行われることになる。コロサイの信徒への手紙2章6~8節では、「あなたがたは、主イエス・キリストを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい」と記されている。ここには、すでに新約聖書時代に信仰告白の連続と非連続の問題が、間接的にではあるが語られている。「教えられた通りの信仰」は、「人間の言い伝えにすぎない哲学」と明確に区別され、「キリストに根を下ろして造り上げられ」ることと「感謝する」ことが、連続性を示す具体的なキリスト者のあり方とされている。
このような伝承と教えの連続性は、古代の教父たちによって例外なく強く意識されており、彼らの教理の正統性の根拠となっている。例えば、オリゲネスは、『諸原理について』の冒頭で、イエス・キリストを信じている人々の間で些細な不一致は存在することを認めた上で、確実な原則とはっきりした規準(regula)を設定し、問題を探求しようとする(第一巻2、邦訳47頁)。この場合の規準とは、「使徒たちから受け継がれ、守り継ぐがれ、今に至るまで教会のうちに保たれている教会の教え(ecclesiastica praedicatio)こそ保存されているのである」と言う(同47頁)。そして使徒たちの教えを前提とした上で、オリゲネスの神学的省察が、展開される。またカエサリアのバシレイオスは、『聖霊論』で正面から伝承の問題を取りあげているが、書かれた伝承と使徒たちから受け継いだ秘された伝承を区別し、特に後者に様々な教会の慣習までも含めている。
バシレイオスが、このような伝承概念を拡大していった背景には、すでに使徒教父や弁証家の時代から、父・子・聖霊の名による洗礼が三位一体論形成を促したように、礼拝の慣習が教理形成に影響を与え続けていた事実がある。アタナシオスは、『セラピオンへの手紙』の中で、聖霊の神性を論証するにあたり、繰り返しマタイ28章19節の復活の主の洗礼命令に訴えている。
以上の例証は、信仰告白そのものの連続性ではないが、古代教会においては教えの連続性と礼拝慣習の連続性が強く意識されたことを示す。この場合、連続性の根拠となっているのは、単なる字句の同一ではなくて、神の独り子イエス・キリストの現在(すなわち神の自己啓示)の連続性である。それこそⅠコリント15章3節以下の復活者の顕現のリアリティこそ、正しい信仰告白の連続性を保証するものとなる。ヒラリウスは、マルキオンやマニ教などの異端の名を挙げた後、「信仰の定式(forma fidei)は確実である。しかし、異端者に関する限り、その把握はまったく不確実である」と言う(『三位一体論』邦訳『中世思想原典集成4』478頁)。ここで示唆されていることは、固定した信仰箇条ないしは信仰告白定式は、確実であるにもかかわらず、啓示の出来事に根拠づけられていない「信仰」の不確実性である。換言すれば、信仰告白は啓示を指し示す限りにおいて、時代を超えて連続性を獲得するが、啓示に根拠づけられていなければ、どれほど字句の一致があっても、現臨の主は把握されない。
さて、宗教改革諸信条を一瞥するならば、ここにもまた信仰告白の連続と非連続の問題が立ち現れていることに容易に気付くであろう。連続性については、例えば第二スイス信条は、皇帝テオドシウスの布告と古代教会の信仰告白であるダマススの信条が冒頭に掲げられている事実から、古代教会の信仰との連続性が示唆されていることがわかる。また、アウグスブルグ信仰告白では、第一条の神についての項で、「第一に以下のことがニカイア公会議の決定にしたがって一致して教えられ」と明記されて、アウグスブルグ信仰告白と古代の三位一体信仰との継続性が示されている。さらに四都市信仰告白では、第二条が「三位一体と御言葉の受肉の神秘」を扱うが、「この点に関しては、わたしたちは教会教父やキリスト者一般の共通理解から何一つ違っていないので、以上述べただけで十分であると考える」(邦訳126頁)と言われる。また、フランス信条では、五の聖書の権威の項目で、聖書の諸書の規範性をうたった後で、「われらは三つの信条、すなわち使徒の信条、ニカイア信条、アタナシオス信条を承認する。それらは神の言に一致するからである」とある。
宗教改革者たちは、ほぼ一様に古代教会の教えと信条との連続性を強調した。このことは、宗教改革時代の多くの教理問答が、使徒信条の釈義という形で、福音信仰の本質を提示していることにも現れている(ハイデルベルグ信仰問答,ジュネーヴ教会信仰問答など)。しかしながら、このように、宗教改革諸信条は、基本信条との連続の側面を強く打ち出しながら、必要な項目において非連続をも示している。この点は言うまでもないことで、各信仰告白は例外なく新しい語り方、信仰箇条の配列や内容の新しい展開を試みている。そのプロセスとともに、あらゆる異端が退けられる。アウグスブルグ信仰告白第一条では、ニカイアの決定に言及した後、ただちに「それゆえ、この条項に反対するすべての異端が斥けられる。すなわち、悪と善とのふたりの神を立てたマニ教徒やウアレンティノス派やアリウス派、エウノミオス派・・」と続く。
しかしながら、ここでわれわれが留意すべきは、宗教改革の信仰告白には、神の言葉に基づいて自己を相対化する態度が内包されている点である。とりわけ改革派諸信条は、自体の内に一種の誤りの可能性を前提しているのであり、信仰告白の自己決定性の否定を観察できるのである。しかも、この態度は改革派諸信条の正典理解と結びついている。つまり、聖書正典が、教会の制定によるのではなくて、神の霊感によるという大前提は、自ずと規範する規範としての聖書と規範される規範としての信仰告白の区別を明確ならしめるのである(第一スイス信仰告白第1章、第二スイス信仰告白第1章、スコットランド信仰告白第19条、フランス信仰告白第一章3,ベルギー信仰告白第3~5条、ウエストミンスター信仰告白第1章など)。
ここに信仰告白の連続と非連続の問題の本質がかかってくる。つまり、信仰告白の連続はあくまで信仰告白制定の主体としての教会の連続性に存するのではなく、もっぱら聖書において証言される、神の言葉なるイエス・キリストにおける神の自己啓示の歴史的連続性に依拠している。したがって、信仰告白の非連続性は、霊感によって書かれた聖書諸文書の正典性の拒絶ないしはイエス・キリストにおける神の自己啓示への不信仰によって生じるのである。シュマルカンデン条項も、「神のことばのみが、信仰の条項を立てるべきなのであって、ほかの何人も天使もこれをすることはないということなのである」と述べている。バルトはこのあたりの消息をかなり詳しく『教会教義学 神の言葉Ⅱ/3聖書』で論じている。バルトは、信仰告白を最終的、決定的に正当なものとして認めるのは、結局聖書であると言うが、同時にそのことは「教会的な権威としての信仰告白の権威の減退を意味するのではなく、むしろそれを打ち立て、確認することを意味している」(邦訳326頁)と言う。さらに、古い信仰告白と新しい信仰告白の時間的な相互限定について、地理的限定よりももっとはっきりした形で、「教会の〔諸〕信仰告白が相互に条件づけあっていることを示しているのであり、古い信仰告白と新しい信仰告白は互いにそれらの権威を造り出し、確認しあうことができるし、また互いにそれらの権威を造り出し、確認し合わねばならない」(同330頁)と述べている。
ここから、信仰告白の連続と非連続は、思想の発展のような連続と非連続概念では捉えられない。あるいは同一平面上の直線や図形の連続や非連続との類比でも捉えられない。規範する規範としての聖書正典概念が、次元を異にするところから、連続と非連続を照らし出すのである。
以上の考察から、以下の諸点をまとめることができる。
①信仰告白に連続性を認めるとするなら、それは、古代から宗教改革の時代まで、単に教理の条項の類似性や継続性によるのではなく、神の言葉が歴史へと啓示され、働きかけるその連続性に根拠づけられている。
②信仰告白の連続性は、聖書正典によって絶えず検証される。その際、聖書正典は教会の制定によるものではなく、神の霊感によるものであることを前提としている。
③信仰告白の連続性は、礼拝の慣習における連続性をも包含する。
④各時代の信仰告白は、相互にそれらの権威を造り出し、確認し合わねばならない。
1890年の旧日本基督教会信仰告白と1954年教団信仰告白
1890年信仰告白も教団信仰告白もともに、使徒信条に「前文」が付された簡易信条であるという共通点を持つ、しかも、前者が後者の範型となったという点から、形式的な連続性を想定することはできる。しかしながら、その成立の経過と信仰箇条の内容には、想像する以上の差異が存在する。
第一に成立の経過の差異である。1890年信仰告白は、1890年12月に開催された日本基督一致教会の第六回大会の会期中に制定された簡易信条である。この大会中に、動議が出され、一致教会は「日本基督教会」と名称を改めることになる。一致教会から日本基督教会への移行は、前年1899年の組合教会との合同の試みによって造られた改正憲法案作成の経緯の中で生じた簡易信条による一致という機運とナショナリズムの傾斜することによって、ドルト信仰規準、ウエストミンスター信仰告白、同小教理問答、ハイデルベルグ信仰問答を含めた日本基督一致教会の『教会政治及び懲戒条例』が廃止されている。
この1890年信仰告白成立の要因を、歴史史料から公会主義への復古への熱望、植村らのナショナリズム、組合教会との合同への志向等、色々に詮索することができよう。しかし、大野昭氏が言うように、信仰告白制定の動議は何か唐突な偶然的出来事というより、「『簡易と合同を指向する型』はすでに開教二十年を経たその時期までに形成されていた」と見ることができよう(「1890年の信仰告白をめぐって」『季刊教会』1号、1990年)。そして、何より、1890年の信仰告白は日本基督教会という一つの教会会議において決定せられたわが国最初の信仰告白であった。
これに対して、1954年日本基督教団信仰告白の成立は、すでに合同教団として1941年に出発した日本基督教団によって、教会設立から13年目にして制定されたものである。周知のように、日本基督教団は、宗教団体法の施行によって合同を余儀なくされたプロテスタント諸教派によって1941年に結成されたものである。始めは部制を取ったが、翌年にはそれも解消され、信仰告白制定が実行されぬまま、戦後はいくつかの教派の離脱が生じた。また教義の大要が不要になり、代わって信仰告白制定問題が浮上する。とりわけ1951年頃より会派問題が生じ、信仰告白制定が焦眉の急を告げる。教団は信仰告白制定特別委員会を発足させ、1951年から信仰告白作成に取りかかった。1952年10月の第七回教団総会に、信仰告白の文案が報告され承認を得た。その後原案は修正を加えられ、1954年第八回教団総会にて承認された。しかし、承認された信仰告白は、拘束性を伴わない「讃美告白として」さらには、「度はずれた解釈を許さない」という程度の規範性を承認されて生み落とされたのである。日本基督教団信仰告白の最大の問題は、信仰告白理解の一致のまったくない諸教派の合同教会において採択された信仰告白であるということである。採択者が、採択した信仰告白の積極的な内容規定をなしえないまま、信仰告白が成立したという事実は、1954年信仰告白のもっとも大きな問題である。換言すれば、教団信仰告白は、神学的な位置づけが与えられていないとともに、教会的な実存的生を希薄にしか持っていないのである。この点は、1954年4月1日の『宣教』に掲載された東京伝道局信仰職制研究会委員の寄せた「教団の信仰告白文案に対する意見」にも示されている。しかしながら、教団信仰告白も、「法的には」(de jure)には、教団の信仰告白として制定されたこともまた事実である。
したがって、成立に関する限り、両者の間には神学的には大きな非連続がある、他方「法的」には、教会の信仰告白として採択されたという点だけには共通点があると言わざるを得ない。
内容に関する限り、両者の間には連続と非連続が混在している。連続性について言えば、以下の三点を挙げることができる。第一に、既に述べたように、両者とも使徒信条に前文が付されるという形式的な類似性がある。54年信仰告白は、1890年信仰告白をモデルとしているからこの点は当然である。第二に、聖書の正典性と霊感によって書かれた点が、明確に告白されている点である。これはプロテスタント原理が共通して信仰告白文の内容に明示されていることを示すものである。
それに対し、両者の差異もまた指摘することができる。例えば、1890年信仰告白の前文には、ニカイア信条の文言の影響著しく、キリストと聖霊の項目が三から出発する三位一体的構造を取っている。これは、前文に福音主義教会の基本教理を並べた54年信仰告白よりはるかに典礼的な使用に適するものとなっている。さらに、1890年信仰告白は、主イエス・キリストの十字架上での犠牲が告白された後、信仰者とキリストとの「一体」による罪の赦しと義化に言及される。このような救済のダイナミズムは、1954年信仰告白には見られない。他方、54年信仰告白は、聖書が「信仰と生活の誤りなき規範」であることが記される。さらに信仰者の「選び」や聖霊の聖化への言及がある。