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キリスト教学校の本質的課題-礼拝・キリスト教概論・聖書科授業-
はじめに
キリスト教学校は、学校教育法第一条に規定される学校として、公教育(public education)の担い手であるとともに、寄附行為においてキリスト教教育の理念を明確化して、それを実践する学校である。礼拝、キリスト教概論、聖書科授業は、キリスト教教育の理念と実践に関わるゆえに、キリスト教学校の本質的課題である。
礼拝、キリスト教概論、聖書科授業は、キリスト教学校の公的性格を表すものと理解されるよりは、特殊キリスト教性の涵養の実践であるととらえられがちである。しかし、実際は、多元化した現代にあって、これらは、キリスト教学校の真の意味での公的性格の具体化である。なぜなら、日本という国家、日本という文化の相対的性格を超えた、普遍的な価値や文化の伝達が、学校礼拝や聖書科授業においては実践されるからである。
プロテスタント・キリスト教も、その信仰においては、古代教会以来の普公性を継承し、その土台の上に、プロテスタント諸原理を保持している。このプロテスタント教会の信仰形成そのものが、すでに普遍性を有しているのであり、キリスト教学校における本質的課題とは、キリスト教学校の理念や自己同一性を公的に確認し、保証するものであると同時に、キリスト教が歴史的に持ってきた普遍性や公同性に結びつくことを忘れてはならない。
1 礼拝
キリスト教学校における礼拝は、教会の礼拝とは異なって、学校が主宰する学校行事である。しかし、キリスト教学校の礼拝も、御言葉の説教に基づいて、三位一体の神を讃美頌栄する性格を持つ限り、公同的な教会の礼拝と不可分である。
礼拝を主宰する主体を認識、理解したときには、法人や教学の責任者の礼拝参加、さらには学校全体が礼拝の実施や整頓に責任を負っていることの自覚が促されるはずである。学校礼拝の主宰者は、単に宗教科教員や宗教部、宗教委員会ではない。このことがまず十分認識されなければ、キリスト教学校の公的性格は、日本という国家と文化、あるいは教育基本法の定める「法律に定める学校」の一つとしての教育の担い手という意味での「公」に限定されてしまう。それでは、三位一体の神信仰の普公性という、より本質的なキリスト教原理の上に立つ教育の展開を阻害してしまう。ただし、プロテスタントのキリスト教学校は、教会とは独立した学校法人である。学校経営と運営の母体が、学校法人の理事会であるゆえに、理事会のメンバーが形だけのキリスト教徒であったり、理事会のマジョリティが、非キリスト者である場合には、学校全体のキリスト教性は希薄になるのは当然である。
それゆえに、学校法人は、常にキリスト教学校の教会性の神学的根拠を探索し、確立する努力を怠ってはならない。キリスト教学校の礼拝は、確かに厳密な意味では、教会性を持たない。もし、一種の教会性を持たせるなら、それは独立した学校教会ないしは大学教会を組織する他はないであろう。しかし、わたし自身の経験から、学校教会や大学教会の設立はきわめて難しい。そこで、キリスト教学校の礼拝の教会性は、可視的教会の独自性に依拠するのではなしに、キリスト教信仰の普遍性、公同性に根拠づけるべきと考える。
学校礼拝の主宰者は、礼拝の実践を委ねる組織を学校内に形成し、信頼できる関係を築くことが求められる。その場合、礼拝の主宰者が、学校礼拝についての神学的見解を宗教部や宗教委員会のメンバーと共有しておくことが重要である。例えば、自身の学校が、教務教師をどのように位置付けているか、あるいは宗教部や宗教委員会の構成員の性格や学校全体における位置付け、礼拝をカリキュラムの一貫と見るか、カリキュラム外の教育行為とみなすか、さらには礼拝奉仕者の範囲をどのように定めるか等、すべてキリスト教学校の理念と関わる諸課題、諸問題を扱うことができる神学的見識を得ておくことが大切である。
同時に、主の御旨にかなって、円滑で整頓された礼拝を捧げるためには、事務職員や他教員の協力と理解が不可欠である。礼拝のための一定時間を学校全体が確保するために、事務室の閉鎖や教員、職員の礼拝への参加の積極的呼びかけも継続されねばならない。そして、この呼びかけが実を結ぶためには、私立学校特有の硬直化した制度や人員配置を打破して、新しい試みを絶えず行なう努力が必要である。
学校における礼拝は、キリスト教学校の建学の精神やアイデンティティを確認する機会でもあるから、その内容は、聖書の講解を中心にして、多岐にわたって良い。古代教会の説教が、ある時は聖書講解(ホミリア)(オリゲネス)であり、またある時は異なる教えに対する論駁と弁証であり(エイレナイオス、アタナシオス)、またあるときには異教哲学との統合と総合であった(クレメンス)ように、多岐にわたってよいのである。ジョン・ヘンリー・ニューマンが指摘するように、「[大学における]説教者は、聴衆が大学人であるということから、教父を引用したり、博識を披瀝したり、何か独創的な議論を組みたてる必要はないのである。あるいは、様式に凝ったり、装飾をちりばめたりする必要もない。説教者は、自分の前の聴衆の性格と必要を十分に考慮し、聴衆をつまづかせたり、誤解させたり、失望させたり、益を与えそこなったりするものを避けることが必要なのである」(John Henry Newman, ‘University Preaching’, The Works of Cardinal Newman, The Idea of A University, p. 420f)。プロテスタントのキリスト教学校は、言うまでもなく、聴衆の必要を良く察知しながら、聖書の言葉の豊かさと恵みを語り続けることが肝要である。
2 キリスト教概論・聖書科授業
キリスト教概論と聖書科授業は、各学校のカリキュラムの一部として、学校教育の本質と具体的内容を構成する。ゆえに、カリキュラム外の付加的なものという理解は退けられねばならない。そのためにも、必修単位が割り当てられ、専任の教員が配置され、他の諸学、諸教科との連携、結びつきが常に模索される。
キリスト教概論、聖書科授業が、他の諸学科とどのように結びつき、それがキリスト教学校全体のアイデンティティになっているかが、21世紀のキリスト教学校の生命線となるであろう。なぜなら、キリスト教はその長い歴史において、まさに、この境界線の設定と再敷設に多大なエネルギーを注ぐことによって、自らのアイデンティティ形成を具体化してきたからである。複雑化し多元化する社会では、ますますキリスト教概論と聖書科授業が、他の教科とどのように関係しているかを説明し弁証する必然性を帯びる。この必然性を理解するのは、単に科目の担当者だけではなく、キリスト教概論と聖書科を設置している学校全体である。理事者はもとより、教学の責任者、そしてキリスト教担当者、全教員の理解が不可欠である。ニューマンが、「キリスト教と医学」という講義の中で興味深い例話を紹介して、キリスト教と諸学の関係を説明している。
「ある地域に熱病が発生したと考えてごらんなさい。その地域の患者たちを訪れようとしているある修道女に、医者は言いました。『もしいつまでもその地に滞在し続けると、あなたは間違い無く熱病が伝染して死んでしまいますよ』。これに対して、その修道女の上長は、正反対に次のように言いました。『あなたは、その地に留まって奉仕に身を捧げなさい。そのためにもその地にとどまられねばなりませんよ』。彼女がその地に滞在し、そこで死んだと考えてごらんなさい。医者の言ったことは、確かに正しかったことになります。しかし、この修道女が間違っていたといったい誰が言うことができるでしょうか。彼女は、医者の言葉を疑うことはなかったが、修道会の上長の言葉と比べたときに、その医者の言葉の重要性を否定したのです。医者は正しかったのです。しかし、かれは、目的を達成することはできませんでした。かれは、自分が語ったことにおいては、正しかったのです。かれは、真なることを言ったのですが、諦めなければなりませんでした」(John Henry Newman, ‘Christianity and Medical Science’, The Works of Cardinal Newman, The Idea of A University, p. 509)。
ニューマンが語るような状況が、現代のわたしたちをも取り巻いている。キリスト教教育の問題は、医者と修道女の生き方の二者択一の選択を学生、生徒に迫ることではないであろう。重要なのは、ある出来事に関与する人間には、選択が必要であることと、その選択肢には多様性があること、しかもその多様性は、諸科学の発展によってますます増大しつつあることを知らせることである。そして、言うまでも無く、最良の選択は、修道女が生命を失うことなく、伝染病地域の医療に取り組む、新しい可能性を模索する道の探究へと学生、生徒を誘うことである。
公教育の担い手としてのキリスト教学校におけるキリスト教概論と聖書科授業は、学校全体のカリキュラムの中に明確に位置付けられねばならない。さらに、他教科との関係も、カリキュラムやシラバス上に反映されねばならない。興味深いのは、1988年の教育改革法以降のイギリスの宗教教育は、いわゆる集団礼拝とアグリード・シラバスと呼ばれる各地域の教育当局(Local Education Authority)によって定められたカリキュラムに基づいてなされる授業によって実質化されている。伝統的なキリスト教社会の構造が変化して、多元的文化と宗教社会へと移行しつつあるイギリス社会にあって、キリスト教的な宗教価値を根幹に据えながら、なお多元社会の文化的価値の多様性を十分意識したカリキュラム編成がなされている事実は、日本のキリスト教学校におけるカリキュラム形成におおいに参考になるであろう(詳細は、柴沼晶子・新井浅浩編著『現代英国の宗教教育と人格教育』東信堂、を参照)。
3 キリスト教大学における、これからの礼拝、キリスト教概論
最後に、私自身が教務教師として働いた13年間の経験と牧師、神学教師としての経験をふまえて、実践的、具体的に、これらからのキリスト教大学における礼拝、キリスト教概論のあり方についていくつかの提言をしたい。
第一に、学校礼拝は全学の行事として位置付けるために、学校の理事者、教学の責任者の関与と教育的意図の徹底が常にはかられねばならない。学校礼拝の内容の整頓と充実には、時間がかかるのが常である。数年間の目標期間を定め、全学的に礼拝確立に取り組むことが必要である。一日の中のもっとも良い時間帯に礼拝が設定される必要がある。ニューマンがいみじくも述べたように、大学礼拝の説教は、常に聴衆(学生、生徒)の益が配慮される必要がある。したがって、礼拝の説教者の選定も、学校の宗教活動の責任主体が中心となって行なう必要がある。地域の牧師すべてに自動的に説教を委ねてしまう姿勢は無責任である。音楽礼拝の効果はきわめて大きい。クリスマス、イースター等の特別な礼拝が音楽を伴うもの、しかもキリスト教信仰と結びついたものであれば、一層効果は大きい。しかし、毎日の礼拝の維持は、大変な労力を伴う。それゆえ、キリスト教学担当者も本音では、一定以上の労力を費やしたくないと考える場合が多いから、学校全体の公的行事として教学の責任者や理事者自身が礼拝の維持には責任を持つという姿勢が重要となる。
第二に、キリスト教概論は、一定期間必修として定め、他教科と同じく単位を設定する。その他、キリスト教に関連する学際科目をも3年次、4年次に選択できるように配置する。キリスト教概論は、学校礼拝とともに、キリスト教学校のキリスト教性維持のための日本の柱となろう。この柱を理念的、実践的に維持する主体形成が、キリスト教学校の大きな課題となる。私見では、キリスト教や聖書科担当者が、核となって、宗教部や宗教委員会を組織し、キリスト者教員やその他の教員との密接で、良好な関係を築く努力を怠らないようにする。特に、キリスト教教員の採用にあたり、教科教育への責任だけでなく、このような学内のキャンパス・ミニストリーへの責任を負うことを約束させる必要がある。
最後に、これら礼拝とキリスト教概論担当の教務教師養成が急務となろう。明確な召命感と学力を併せ持った教員の採用は、ただ単に「学問的な業績」によってではなく、学問業績をはるかに凌ぐ形で、伝道の実績を考慮して行われるべきであろう。