Church Lectures

第一章 母なる教会に連なる喜びー教会とは何かをまず考えよう

更新日:2022.07.23

キリスト教と教会は、密接な関係を持ちます。教会の無いキリスト教は存在しないと言ってもよいほど、両者は不可分のものです。歴史的なキリスト教は、どの時代にあっても、信仰を継承し伝達する信仰者の群れである教会によって担われてきました。教会を意味するギリシア語は、エクレシアです。エクレシアは、元来は「集会」を意味する世俗的な言葉でしたが、キリスト教ではこの語によって、イエス・キリストを神の御子であるとともに、わたしたちの救い主であると信じる信仰共同体を意味するようになります。

旧約聖書では、イスラエルという民族が、神から選ばれた信仰共同体でありましたが、新約の時代には、教会は主イエス・キリストを救い主と信じる「新しいイスラエル」と呼ばれるようになります。

そして新約聖書では、教会はキリストに結ばれて「一つの体を形作る」もの、「キリストの体」と呼ばれ(ローマ12:5、エフェソ4:12など)、教会に連なる喜びを信仰者相互に共有するとともに、その喜びを言葉によって説明する営みを行ってきました。

わたしたちの国では、聖書に興味を持つ人は少なくありませんが、教会や教会の歴史は案外知られていません。アメリカやヨーロッパの町々に観光で出かけると、街角にある立派な教会が目にとまり、暑い夏にはひんやりした会堂の中に入って教会の長椅子に腰かけて、ステンドグラスや装飾品に目をこらした経験のある方々は多いでしょう。しかし、長椅子に腰かけて、しばしの休息をとった教会がどのような教会であるか、これまでどのような歴史を刻んできたかについて興味を持つ人は案外少ないのではないでしょうか。

わたしたちは、教会と言うと、パイプオルガン、天にまで伸びる尖塔、美しいステンドグラス、ガウンを身に付けた神父や牧師などを思い起こします。実際、日本の各地には、結婚式を行うための「疑似教会・チャペル」が建てられています。北海道のある町を訪れた時のことです。駅前の一等地に立派な教会堂がありました。こんなところに教会があると嬉しくなって近づいて見ると、立派な正面に「聖○○教会」などというプレートが掲げられていました。近づいて見ると、教会に似てはいるものの、本物の教会とは似て非なる結婚式場であると判明しました。

かたちだけの教会、外見だけの教会、日本の街の巷にはあふれています。いずれも商業ベースで建てられた建物にすぎません。さらに結婚式を教会堂で挙げる若いカップルは少なくありません。わたしたちの国では、チャペルでの結婚式にキリスト教の出番が確かにあるのですが、それらは、スタイルこそ「キリスト教会」ですが、内容に至ってはキリストの教会とほとんど縁もゆかりもないものとなっています。

本当の教会ではないものに囲まれていると、いつのまにか本当の教会とは何かということが、わたしたちの国では忘れ去られてしまいます。しかし、このような事実は、実際に洗礼を受けて教会員となり、長く教会生活を送っている方々にも当てはまります。毎週礼拝に出席し、聖書を読み、説教を聴き続けてきた熱心な信徒もまた、案外教会とは何かを真剣に考えることが少ないのです。そこで、まず本書では、真の教会とは何かを考えてみましょう。

 

1 キリストの体なる教会

目に見える教会は、ペンテコステの出来事(使徒言行録2章)によって誕生しました。それ以来教会(エクレシア)という言葉は、聖霊の注ぎによって生まれた各地域や都市の各個「教会」(Ⅰテサ1:1、Ⅰコリ1:2など)を表しました。エルサレムの教会、コリントの教会、エフェソの教会という風に、地中海各地の都市に教会は次々に建てられて行きました。

各個の教会は、ただ一つの分離独立した自律的な集団としてではなく、同じ信仰を分かち持つ全体の存在の一つとして理解されました。各個教会抜きの教会という、何か普遍的な概念のようなものがあるのではありません。一つ一つの現実の具体的な教会があって、さらにそれらを包括する全体の「教会」があります。エフェソの信徒への手紙では、キリストとの深い結び付きの中で、全体の教会が意味されています。神は、諸力の上に立たれる復活の主イエスを与えてくださり、教会はキリストの体、すべてのものをすべてにおいて満たす方であると言われます(エフェソ1:23)。3章21節では、「教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように」と頌栄の言葉が記されています。教会ははっきりと神讃美に関係づけられ、キリストと不離の関係にあることが示されています。さらに、キリストと教会の関係は、男女の結婚の原型としても理解されています。

コリントの信徒への手紙(一)12:12~27では、教会の全体がキリストの体であり、「頭」はほかの部分の中の一つであると言われます。パウロの手紙では、個別の教会が常に視野にありますが、コロサイの信徒への手紙やエフェソの信徒への手紙では、神によって「諸力」と万物の上に置かれた頭であるキリスト(コロ2:10、エフェソ1:20~23)と特別な関係にある全体存在としての教会が意味されています。

キリストは天に故郷を持つこの地上の教会の源であり目標です。したがって、教会は、常に頭であるキリストを指し示し、キリストのかたちにふさわしく自己形成していくことが求められます。礼拝のもっとも重要な構成要素である説教と聖礼典を通して、復活し天に挙げられたイエス・キリストの体とわたしたちは一つに結ばれるのです。

教会は、本書の「はじめに」でも指摘したように、わたしたち信仰者の母と呼ばれてきました。主イエス・キリストの父なる神を信じる群れが、わたしたちの母なのです。信仰者は、母に抱かれて、福音という乳を吸います。教会が、喜びと感謝に満ちた母なる共同体となるのは、教会に連なる者がキリストの福音を乳としていただく時です。

3世紀のカルタゴの司教であったキプリアヌスは、「教会を母としてもたない者は、神を父としてもつことができない」(『カトリック教会の一致について』6『中世思想原典集成4』190頁)と言いました。この言葉は、宗教改革者たちによって好んで引用されて、教会への敬愛を表すものとなりました、キプリアヌスは、同じ書物で、「信徒にとって唯一の教会以外に家はないのである」とも述べています(同上8、192頁)。教会以外に、救いの福音が伝えられる場所はありません。教会においてのみ、わたしたちは、主イエスとの出会いの喜びを、歴史の中で永続的に伝達する手段を与えられています。説教と聖礼典は、そのような手段に他なりません。

しかし、教会が、罪を繰り返す犯す人間の群れであることも事実です。教会には、いつも争いが起こり、罪と堕落がはびこります。実際、教会生活を始めてしばらくたつと、立派だと思っていた人々は、そうでもなく、普通の人であることに気付きます。あれほど尊敬していた牧師に対しても、やがて敬愛の念は少なくなっていきます。こういう経験は、当然と言えば当然のものです。なぜなら、教会は、わたしたちの生きている世界と同じく、救いを必要としている共同体だからです。教会は、聖人たちの社交場ではなくて、時には立派に見せかけ、時には自分の罪を信仰的振る舞いによって覆い隠そうとする人々の集まりなのです。

プロテスタント教会は、教会を救いの通路とは考えません。あるいは、教会をキリストの受肉の体の延長とはみなしません。教会は、どこまで行っても、この世に立てられた罪人たちの集いであると理解します。

しかし、教会には他の人間集団と異なる点があります。それは、教会が、神によって選ばれ召された信仰者の群れであるということです。しかも、旧約のイスラエルの民と同じく、救いの約束を与えられた契約の民です。

信仰者の群れは、どこまで行っても地上にあり続けます。神は天にあり、人間は地上を生きます。神と人とを混同することはできません。しかし、神の選びと恵みによって、この世界に神の民が起こされたのです。古代末期の教父アウグスティヌス(354~430)が考えたように、終末に至るまでは、神の民に混在する毒麦と良い麦とを識別することは人間にはできません。教会は地上にあって、信仰者と不信仰者、善人と悪人が混合した共同体です。しかし、そこに神のご計画があり、そこに神の不思議な選びがあるのです。

そのように考えると、確かに教会は地上に立てられた人間の群れですが、その選びの根拠は、神とキリスト御自身にあることになります。言い換えれば、地上の教会の根拠は、天にあることになります。天にある教会は、不可視的な教会です。アウグスティヌスは、見える教会と見えない教会を区別しましたが、それは、教会の本質の深い洞察によるものです。

わたしたちは、目に見えない天の教会を信じます。天の教会は、十字架にかかり復活して天に挙げられたキリストの体として永遠に存続します。天の教会は、公同的な信仰と教理(天上の教理)を常に保ち続けます。わたしたちは、公同信仰を告白して洗礼を受けると、もちろん洗礼を受けたその教会の一員となりますが、同時に天の不可視的教会の一員となります。

 

2 礼拝の喜び

キリストの体である教会につらなる喜びは、何より礼拝する喜びです。礼拝は、わたしたちが神ご自身に招かれ、父・子・聖霊なる三位一体の神を讃美頌栄する行為です。

パウロは、コリントの信徒への手紙(二)3章17節で「主の霊のおられるところに自由があります」と語っています。パウロは、この箇所で、出エジプト記34章29節以下のモーセのシナイ山からの下降を念頭に置きながら,ユダヤ教の礼拝とキリスト教の礼拝の差異を明確に語っています。復活の主の現臨は、もはやわたしたちの心に覆いがかかったまま、讃美礼拝されるのではなく、「主の方に向き直れば、覆いを取り去られ」(16節)、復活の主のみを神とする自由が与えられます。このような礼拝の喜びが、わたしたちが教会に連なる喜びとなります。

礼拝は、わたしたちが捧げる行為ですが、同時に神ご自身が主体となる出来事でもあります。このことをしっかり認識していないと、礼拝は結局良い説教を聴いて今日は有り難かったとか、今日は満足だという自己中心的な守り方に終始してしまいます。英語で礼拝のことをサーヴィスと言い、ドイツ語では、ゴッテスディーンストと言いますが、いずれも、神がわたしたちに仕えて下さること、奉仕して下さることを意味します。つまり、わたしたちのために礼拝があるのではなくて、神がわたしたちに奉仕して下さるゆえに、わたしたちが神の前にへりくだり、神に徹底して仕える姿勢で礼拝に出席しなければなりません。この姿勢が崩れると、礼拝は礼拝ではなくなってしまいます。ローマの信徒への手紙12章1~3節のパウロの勧めは、わたしたちがその生活のすべて、全存在を神に献げる生き方そのものが、礼拝であると語っています。

教会は、その出発点から礼拝する民として可視的な共同体を形成してきました。それがどんなに小さな群れであっても(マタイ18章20節)、またどれほど貧しい群れであっても、神が選び出し(申命記7章6節)、礼拝の姿勢と言葉とをわたしたちに与えて下さいます。

言うまでもなく、神の民としての教会の原型は、旧約聖書のイスラエルにあります。申命記6章4~5節に記されているように、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という御命令に生きる民が、すなわち神の恵みに聞くという仕方で応答する民が、教会なのです。

2009年7月のはじめに、カルヴァン生誕500年を記念して、東京神学大学の礼拝堂でカルヴァンの時代の礼拝式文に基づいて、礼拝を捧げる試みが行われました。わたしが聖餐の司式を受け持ったのですが、予想に反して、カルヴァンの時代のジュネーブ教会の礼拝は、罪赦された人間の感謝と喜びに満ちた礼拝でした。シメオンの讃歌(ルカ2:29以下)を最後に歌ってその場から散っていく会衆は、たとえ自分の生命が明日終わっても良いという信仰者としての心構えを与えられて、新しい一週の旅路へと派遣されていきます。

 

3 主イエス・キリストのご臨在を信じる喜び

三位一体の神を礼拝するとは、主イエス・キリストの十字架と復活、昇天の出来事を通して、主イエス・キリストにおける、父なる神のご臨在を信じる喜びに与ることです。神ご自身の交わりとは、神が御子イエス・キリストを十字架に送り、苦難と死を経験されるというまことに厳粛なものです。ゲッセマネの園での祈り、そして十字架における主イエスの叫びにあらわれているように。父なる神は徹底して、私たち人間のために、御子を死に渡し、血と肉を裂いて、わたしたちを救おうとされました。その父なる神と御子との交わりの中にわたしたちは入れられて、神の深い愛と恵みを知らされます。

三位一体の神は、ご自身の中にすでに、父・子・聖霊の交わりを持っておられますが、わたしたちはその交わりに参与することが赦されているいのです。罪赦されて、神の生命に生きることができる、古い自分が死に、キリストにある新しい生命に生きることができる、これがキリスト者にとって最も深く大きな喜びなのです。ヨハネ福音書4章が描く、サマリヤの女性と主イエスとの出会いは、主イエスの差し出す永遠の命に至る水を与えられた者が、罪の赦しと救いに対する応答として、「霊と真理とをもって」父を礼拝する場所と時が与えられる主の約束を描いています。

三位一体の神を礼拝する喜び以外の喜びが、教会生活の中心に来ると、教会は教会ではなくなります。気の合う人々との交わり、礼拝後の各会の楽しみ、教会を通じて知り合った人々との教会以外のところでのリクリエーション、それらが最も大切な喜びとなるとき、わたしたちは教会生活の意義を見失います。キリスト教プラスαの信仰は、キリスト教信仰でもなんでもありません。むしろ、それは偶像崇拝に近いものに堕落してしまいます。

偶像崇拝は、崇拝の対象が自分の前から取り去られると、すぐに不平と不満がわたしたちの心を占めるところからわかります。関根正雄は、偶像とは、霊を閉じ込めるものであると指摘していますが、まさに人間的霊がそこに閉じ込められ、それを自身の霊で支配してしまうという奇妙な諸霊の支配関係が、偶像の本質にはあります。

フィリピの信徒の手紙4章4節で、獄中にあったパウロが、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と語るのは、かれの全存在の中心に、生ける復活の主イエス・キリストがおられるからです。フィリピの信徒への手紙を締めくくるのは、4章19節、23節の三位一体的な頌栄定式であるのも、パウロ自身が、父と子と聖霊の神の信仰にしっかりと生かされていたことを物語っています。

パウロが、テサロニケの信徒に対して、「わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています」(Ⅰテサロニケ3章9節)と言うとき、復活の主の命に生きる者の共通した喜びが語られています。教会に連なる喜びは、復活の主に結ばれている確信から与えられる喜びなのです。

復活の主と一つに結ばれているという確信は、礼拝のたびごとに、説教と聖餐を通して与えられます。「見えない言葉」である説教は、聖霊の照明を与えられて、語られた聖書の言葉が神の言葉となります。聖書の言葉を通して、天におられるキリストの体と結ばれます。

聖餐のパンとブドウ酒は、確かに物にすぎませんが、主イエスが制定してくださった固有の物を通して、やはり天の主イエス・キリストの体とわたしたちは一つにされます。わたしたちの罪の体が死に、天のイエス・キリストの命に与る恵みは、何にも代え難い恵みです。

 

4 悪と戦い、諸霊を識別する

キリストの命に結ばれ、キリストの体なる教会の枝とされた者は、信仰の勇気を与えられます。エフェソ書6章10節以下は、「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」と勧めた後、悪魔の策略に対抗するように、神の武具を身に着けなさいと語っています。

天のキリストにしっかりと結ばれた者は、人生の中心を持ちます。決してそこからぶれることはありません。試練が襲っても、ルターのように、「祈りなさい、黙想しなさい、試練を経験しなさい」と語り続けることができます。

今の日本社会は、自己中心主義が人々の心を覆っています。悪が社会の隙間を埋めています。このような時代にこそ、「真理を帯びとして腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物」とし、さらにその上で「信仰を盾として取り」「悪い者の放つ矢をことごとく消す」ことができるのです(エフェソ6:16)。わたしたちのキリスト者は、神の言葉と祈りをもって、戦いの場へと赴きます。

悪との戦いや諸霊の識別は、新約聖書においても、また古代教会においても重要な教会の課題でした。確かに善人と悪人をわたしたちは神のように識別できません。しかし、教会に悪が入り込み、キリストの主権と権威を貶め、否定するような力が働くとき、教会は決して傍観者ではなく、目を覚まして祈り続け、同時に戦いを止めないのです。

現代社会は、さまざまな悪霊と悪が支配する時代です。犯罪だけでなく、虚偽、虚栄、自己中心主義、欲望の肯定などが市民権を持って自由に往来し、他方生きることがつらくなった人々が、毎年3万人以上の人々が自ら命を絶つことが恒常化しています。福音に生き、キリストの命に与っている者は、勇気を持って率先して、悪との戦いに出向きます。悪は、自分の家庭、身の回り、職場、世界至る所にあります。

 

5 伝道する喜び

罪赦され、神ご自身の生命に触れ、それに生かされる経験をするとき、わたしたちは、その喜びを他者に伝えたいという促しを与えられます。ちょうど、創世記12章に記されているように、神の御声に促されて、アブラハムがカルデアのウルを出立し、カナンへと入ったように、わたしたちも自己保身や自己中心の生き方を止めて、新しい出発をします。同時に、主イエス。キリストと出会って、弟子となった人々のように、主の御跡に従う生活を始めます。しかし、何と言っても、わたしたちに伝道の勇気と力を与えるのは、復活の主の伝道命令を聞くときであります。マタイ福音書28章16~20節には、よみがえりの主が、弟子達に顕現し、近寄って来て、「・・わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべてにお民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と語られたことが記されています。この宣教命令は、一部の弟子だけではなく、わたしたちすべてに告知されたものであると、キリスト教会は考えてきました。

とりわけ、聖書と信仰告白を重んじ、教会の形成を国境や文化を超えて、実践してきたプロテスタント諸教会は、強い伝道への意欲を持つ教会です。未だ主イエス・キリストの恵みを知らない人々へ福音を伝道しようという勇気と希望が与えられます。2009年には、日本におけるプロテスタント伝道150周年を記念しました。プロテスタント教会は、16世紀のドイツやスイスから始まって全世界に出て行って、教会をたてました。そして150年前、多くの宣教師たちは、波頭を超えて日本の地を踏みしめ、教会の基を築いたのです。

教会は、その出発点から決して閉ざされたサークルではなく、常に地域や国、世界の人々に喜びを伝え、共有する用意のある共同体です。ですから、伝道の喜びを喪失し、自己保身的、自己完結的集団になってしまうと、教会は教会であることを止めてしまいます。プロテスタント教会は、牧師固有の職務を前提にしながら、同時に万人祭司という考え方の伝統を継承しています。すべての者が神に招かれ、家族や地域、国全体、世界全体に御言葉の喜びを伝える使命を与えられていると自覚したいと思います。

 

6 教会の形成に参与する喜び

教会は、主イエス・キリストのみを頭とする群れであり(コロサイ1章18節)、主イエス・キリストご自身が、主の体にもっともふさわしく教会が整えられることを欲し給います(ヨハネ2章21節)。エフェソの信徒への手紙2章21節には、「キリストにおいて、この建物全体は組み合わせられて成長し、主における聖なる神殿となります」と記されています。

地上の教会は、様々な罪と過ちに満ちていますが、この主の願いを真剣に聞きます。それゆえ、教会に連なるすべての者が、祭司として主に仕え、隣人に仕え、神の宮である教会の形成に参与します。教会の形成は、牧師や長老・役員の仕事であって、わたしたちはお客さんという理解は、誤っています。

教会のすべての者が、教会の教えを学び、教会とは何か、福音とは何かを知る必要があります。また、わたしたちの教会がそこで生かされている、教会の歴史的伝統も十分認識していることが大切です。また日本という風土の中で、キリスト教を伝えていく困難と光栄を知っていることも大切です。そして、身近なところで、この「わたし」も、伝道と教会の形成に参与することです。また、礼拝の中の献金に表されている献身という姿勢こそ、教会に連なる者の喜びの表現であることも自覚したいものです。

 

7 公同の教会を信じる喜び

使徒信条やニカイア信条における聖霊の信仰告白の中に、「聖なる、公同の教会を信じる」という箇条があります。

わたしたちは、可視的教会に属するとともに、公同の教会を信じます。「公同の」とは、カトリックという言葉です。カトリックという言葉は、ローマ・カトリック教会の専売特許ではありません。わたしたちプロテスタント教会も「公同の教会を信じる」のです。

公同の教会への信仰は、わたしたちの可視的教会が唯一の教会であるというような独善から解放され、各個教会を超えた普遍的教会の生命の中で、わたしたちの教会の信仰も育まれ、成長させられることを意味します。

エフェソの信徒への手紙4章5節以下には、「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」と記されています。教会の公同性と一性は、主なる神御自身の唯一性に根拠を持ち、そのような教会への信仰が、聖霊への信仰と結び付けられています。それゆえ、頭なる主を中心にして、賜物に応じて、使徒、預言者、教師,援助する者、管理する者など、多様な職務が形成されます(Ⅰコリント12章28節)。聖霊は、自由にわたしたち一人一人の人格に働きますが、同時に教会という共同体の秩序を形づくるのです。

最後に、各個教会の長老会・役員会は、それだけでは真の意味での長老会・役員会にはなりません。信仰と伝統を同じくする諸教会との交わりの中で、各個教会の長老会・役員会の信仰も、また各教会の信徒の信仰も育てられ、深められていきます。

したがって、公同の教会を信じるという信仰箇条の重要さを自覚したとき、わたしたちは教会のすべての事柄を「教会的に」考える姿勢を与えられます。

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