Church Lectures

教会は使徒信条をどのように受け止めてきたか

更新日:2022.07.31

現代の西方教会(カトリックとプロテスタントの諸教会)は、使徒信条を礼拝で用いたり、カテキズムにおきて解説したりして、信仰養育のための不可欠な文書と理解している。では、歴史的にみて、使徒信条は、どのように生まれ、用いられてきたのだろうか。わたしたちが、教会に集う者として最低限知っておくべきことを整理してみよう。

 

1 使徒信条の成立と性格

使徒信条の起源は、2~3世紀の古ローマ信条と呼ばれる洗礼信条にまで遡ることができる。古ローマ信条は、ヒッポリュトスの『使徒伝承』に記されている洗礼の際に用いられた「試問信条」が、洗礼志願者教育に用いられるために宣言的な形をとったものと考えられている。

古代の信条はほとんど例外なく、教会の礼拝、とりわけ洗礼式を「生活の座」としている。ニカイア信条が、4世紀のキリスト論論争を色濃く反映しているのに対し、使徒信条は神学的に論争の的になるような言葉は用いられず、父・子・聖霊なる三位一体の神への信仰をきわめて短いが含蓄豊かな言葉で言い表している。

シャフという信条学者の言葉を借りれば、「きわめて単純な聖書の言葉によって表現された事実のうちに、救いに必要なキリスト教信仰の基本的な条項が含まれている」と言えよう。しかも、神が歴史に働きかけて下さった順序に従って、全能の神への告白から、御子イエス・キリストの降誕と死、復活と永遠の生命そして聖霊に対する信仰告白へと内容が展開していく。そして全体としては、三位一体の神への告白であり、とりわけ第二項(すなわちキリストへの信仰箇条)に大きな比重が置かれている。カトリック、プロテスタントはともに、この使徒信条を公同的な信仰を表す信仰告白として重んじてきた。

確かに古代の信条は、正統と異端の論争の過程で、正しい信仰を表明する「しるし」となった。ニカイア信条のように会議で作成された信条は、異端を退け、正統信仰を言い表す文言を含んでいる。しかしながら、このような古代信条を、自由なキリスト教信仰を抑圧し、制限する文章であるとか、時の権力者が教会に押しつけたものであるとか考えることはまったくの誤りである。確かにコンスタンチヌス体制以降の教会は、ローマ帝国の宗教として、皇帝の期待の対象とはなったが、皇帝自身が信条の文言に介入したという証拠はないし、現代の信条学者は、むしろ古代信条は、各地方の洗礼信条の言葉をそのまま継承していると考えている。

古代の教会は、先のヒッポリュトスの文章からも確認できるように、なお迫害の続く時代に、一人の信仰者が、自らの信仰を言い表す息を飲むような瞬間に語られた恵みと喜びの言葉であり、それ自体が生命に満ちた頌栄的な言葉である。代々の教会は、聖書と聖書の言葉から成る信条を土台として可視的な共同体を建て、共通の信仰を表す言葉である信条を「信仰の規範」(後の用語で表現するなら、「規範される規範」)としてきたことを忘れてはならない。

 

2 使徒信条と礼拝

すでに指摘したように、使徒信条の成立の座は、教会の洗礼式であった。古代教会では、洗礼と聖餐は、教会の礼拝との密接な関係のうちに行われ、やがて、使徒信条の原型となるような信条は、4世紀ごろには礼拝で用いられ、礼拝を構成する重要な役割を担うようになる。

中世の教会は、聖職者と信徒に対して、使徒信条と主の祈りを重んじ、これらを暗唱するように求めた。さらに、1215年の第四ラテラノ会議は、すべてのキリスト教信徒は少なくとも一年に一回は教区司祭に罪の悔い改めをなすべきことが義務づけられた。その際、悔恨に与る準備として十戒についての学びが信徒に課せられた。従って、中世期においては、これら三要文とさらに加えてアヴェマリアが一般のキリスト教者にとってもっとも馴染みの深いキリスト教の信仰を表す言葉となった。

もちろん、時代によってまた所によって、これら三要文への無知が至る所に見られたことも事実であった。しかしながら、ジャンヌ・ダルクは、母の膝もとで三要文を習ったし、ルターは、父からそれらを学んだと伝えられる。すなわち、使徒信条は、中世期にはすでにキリスト教徒の私的な信仰生活においても、不可欠なものとなっていた。

ただし、修道院や大学教会などでは、使徒信条は声に出して唱えられることはなかったという。アタナシオス信条が日曜日の第一時課には歌われ、ニカイア信条がミサでは用いられた。しかし、7世紀には、洗礼志願者が復活祭の夜の洗礼に備えて、レントの第三週に始まる信条の学びを通して、使徒信条を暗記し、洗礼を受ける直前に、悪魔を呪い、使徒信条本文を復唱する慣習があった(redditio symboli)

 

3 宗教改革の教会と使徒信条

宗教改革は、ある意味で礼拝の改革であった。中世カトリック教会のミサの福音主義的な改革の試みは、ルター(1483~1546年)によってなされた。ルターの宗教改革は神学と教会生活、キリスト者の生全体に及ぶものであったが、とりわけ、礼拝と聖餐の問題は最重要課題であった。ルターは、聖書から乖離してローマ教皇を頂点とするローマ・カトリック教会の虜となったキリスト教を解放し、真に聖書と伝統の宗教とすることを追求した。その際、サクラメントの誤った理解を正して、新しい礼拝の順序と内容を提示することを求められた。1526年に刊行された『ドイツミサと礼拝の順序』では、「キリスト教的自由によって、情況に合わせて…用いる」べきことが勧められながら、「聖パウロが教えるように、私たちは愛に従って、一つ心となるようにつとめ、同じ様式と動作でもって最上のものたり得るようにつとめるべきである」と述べて、明確な礼拝改革の姿勢が打ち出されている。

このルターの礼拝改革は、現実には徹底して行われることはなく、ミサとの連続性は保たれたままであった。しかし、ルター自身は、礼拝全体が福音的な正しい方法によって捧げられ、サクラメントが正しく執行され、すべてのことがみ言葉と祈りと愛に向けられることをルター自身が望んだことは事実である。このような礼拝では、使徒信条と十戒と主の祈りについての、短い教理問答が必要であるとも述べている。

ツヴィングリは、「晩餐の行為と慣習」という規定の中で、カトリック教会が慣れ親しんできた三要文をプローネと呼ばれた簡易な礼拝形式を踏襲した礼拝順序の中で用いている。ここでは、罪の告白と赦しが最後に置かれている。

さらに、ファレルやブツアーなどの宗教改革者たちも、新しい礼拝順序に使徒信条を加えている。カルヴァンは、ブツアーの礼拝順序を踏襲しながら、さらに新しい要素を加えて礼拝順序を改訂している。そこでは、聖餐式において使徒信条が歌われ、罪の告白と赦しの宣言が冒頭に来ている。しかも、それに続いて、救われた者の感謝の生活を導く第三用法の理解を前提にして十戒が歌われている。

使徒信条は、このように宗教改革者の礼拝においては、きわめて重要な位置を与えられただけでなく、使徒的な信仰の教理の基礎として、用いられた。宗教改革時代の多くの教理問答や信仰告白が、使徒信条の解説という形態を取っているのもこのような理由による。例えば、『ハイデルベルク信仰問答』の第二部(特に問い23より)は、使徒信条の解説である。さらに、カルヴァンは、『キリスト教綱要』自体を使徒信条の信仰箇条の解説という形式をとって構想した。その初版(『宗教改革著作集9巻』)第二章「信仰について」で、使徒信条について解説し、特に聖霊の項目で次のように語っている。「これらは、深い隠れた奥義であるので、探索するよりはむしろ讃めたたえられるべきものである。私たちの生来の傾向によっても、舌の理屈によっても、能力によっても、これらの奥義を論証しようとしてはならないし、またできないのである」。

ここには、宗教改革者たちが、神を畏れ敬う姿勢が、はっきりと示されている。サクラメントの正しい執行と御言葉の説教という宗教改革者が礼拝改革によってめざした背後には、古代教会以来の三位一体なる神への畏れと信仰が明確に読みとれる。敬虔と信仰の一致がめざされていたのであり、この姿勢はアタナシオスやナジアンゾスのグレゴリオスなど古代信条が成立した時代の教父の信仰と共通するものがある。

 

4 その後の展開

宗教改革後の17世紀には、礼拝における信条の用いられ方に変化が訪れる。とりわけ、1644年に完成し、翌年議会で承認されたウエストミンスター礼拝指針には、使徒信条あるいはニカイア信条がない。これはピューリタン独立派への譲歩とも言われる。さらに1648年のウエストミンスター信仰告白は、使徒信条の解説という形式を取らずに、カルヴァンの神学大系の論理区分に従って、教理を解説するという形式を取った。

このような神学の動向は、礼拝における使徒信条の用法にも反映し、17~19世紀にかけて、使徒信条(ニカイア信条は改革派では用いられず)は時たま聖餐執行に用いられた場合を除いて、ほとんど礼拝で使用されることがなくなる。例えば、ウエストミンスター礼拝指針を採択したスコットランド教会では、使徒信条、ニカイア信条、そして主の祈りも礼拝から失われ、礼拝の貧困へと陥っていったと言われる。さらには、プロテスタント諸教派の中には、信条を成文祈祷同様形式的なものととらえ、さらには信条の拘束性や規範性を嫌って、除外するところが増加した。19世紀のドイツでも、使徒信条中の「処女降誕」の信仰箇条をめぐって、論争が起こったことも事実である。

しかしながら、20世紀に入ると、カトリック、プロテスタントの両陣営とも、古代信条の持つ積極的な意味づけを行い、礼拝刷新の動きと相俟って、礼拝の中に使徒信条をしっかりと位置づけ、しかも公同信仰のよってたつ土台と認識されるようになった。

日本では、1890年の旧日本基督教会の信仰告白、そして1954年の日本基督教団信仰告白は、いずれも使徒信条にいわゆる「前文」を付加した簡易な信仰告白のかたちをとっている。

 

5 現代の教会にとっての使徒信条

第一に、現代の日本の教会は、使徒信条が元来洗礼信条であり、三位一体構造をもつ、頌栄的なものであることを深く認識すべきである。そのような認識に立つならば、使徒信条とともにニカイア信条などの「基本信条」の公同性を積極的に礼拝と教会の形成に生かすことができるはずである。

第二に、使徒信条は宗教改革時代には、教会の礼拝の中で用いられ、礼拝の改革と刷新に大きな役割を果たしたことを認識しなければならない。同時に、宗教改革者は、使徒信条に基づいて、教理問答(カテキズム)を構想した。今日のわたしたちも、伝道の困難な時代には生きているが、様々な伝道の工夫とともに、使徒信条の告白する信仰をしっかりと次の世代に伝え、教育していく責務がある。そのためにも、公同の信仰と礼拝の確立が急務である。

第三に、聖書と信条の関係をしっかり問いながら、日本基督教団の信仰告白において使徒信条に「前文」が付加されている意味を考えたい。そして信仰告白の拘束性の問題を避けることなく、大きな課題としていくことが求められる。

最後に、クランフィールドによれば、ドイツの教会ではかつてナチスの台頭に反対する人々が使徒信条を唱えるようになっていったという。父・子・聖霊なる三位一体の神を告白することのキリスト教徒にとっての倫理的な意義も考えたい。

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