説教「さあ、立て。ここから出かけよう。」
中村恵太
聖書
◆ヨハネによる福音書 第14章15~31節
15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」22イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。23イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。26しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。27わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。28『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。29事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。30もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。31わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」
神の子イエスは、この世界が始まる前から父なる神と共に永遠を生きておられます。その神の子イエスが、わたしたち死すべき人間と同じ肉体をまとって、この地上で限られた生涯を過ごされました。これはわたしたち罪人と同じところまで降りて来て下さった、神の限りない慈しみの故でした。この主イエスの地上の生涯の歩みは、ゴルゴタの丘の十字架へ向かいます。十字架上の主イエスの死とは、わたしたち罪人の代わりに罰を引き受けて贖いの死を遂げてくださった、イエス・キリストの究極の愛そのものです。
さてその主イエスの愛は、十字架の死によって終わりを迎えたのでしょうか。そうではありません。十字架の死後も更にわたしたちに向かって及びます。確かにそれは地上の生涯において、今の私たちと同じ肉体を持っておられた時のような形とは少し違います。「真理の霊」すなわち聖霊が遣わされることによって、主イエスはわたしたちと関わってくださいます。聖霊の働きによって、わたしたちは主イエスの愛に留まり、時間と空間を超えて主イエスと出会うことができるのです。
既にこの地上において肉体が存在しない方が、今もわたしたちと共にいてくださる。イエス・キリストを受け入れようとしない多くの人々は、この真実をもたらす聖霊の働きを知りません。しかし信仰者は、自分たちの理解も超えた聖霊の促しによって、主イエスが共にいてくださるのだということを知らされます。もはや自分たちは「みなしご」ではなく、主イエスと共に父なる神を仰ぎ見ることができるのです。こうして聖霊によって信仰を与えられた者は、主イエスと父なる神との親しい交わりの中に招き入れられます。時代も国も越えて一つとされ、神の家族の一員とされて生きるのです。
こうして神との愛の交わりに生きるようになった信仰者は、そこで守られる主イエスの「掟」に従います。各家庭にはそれぞれのテーブルマナーがあるでしょうが、神の家族の食卓にもルールがあるのです。それは単に形としてわたしたちを縛るようなルールではありません。御子と御父の交わりが互いを愛し、互いに愛されるように、わたしたちもまた互いに愛し、愛されるようになる、愛の真理としてのルールです。そしてその真理はわたしたちを「自由」(ヨハネ八:一二)にするものなのです。
さてそんな素晴らしい交わりならば、誰もが加わりたいと願うのではないでしょうか。そこへ加わるように招かれた時、断る理由は見つかるはずがありません。ところがその招きを受けてなお、その招きを拒む者が存在するのです。わたしたち信仰者には示されたというのに、なぜわたしたちに示されたものが、その者たちは示されていないのか。「イスカリオテでない方のユダ」が抱いたこの疑問は、これまでの教会の歴史の中で何度も繰り返された問いです。
主イエスはその問いに対する答えを直接はお教えになりません。ですからなぜ未だに神さまの声に聞かず、その招きを拒む者が存在するのかをわたしたちの側で判断することはできません。今の時点で主イエスの招きを拒み続けている者も、これから先、その招きに応えて神の家族の食卓に着くかもしれません。逆に言えば、既に神の食卓を共に囲む信仰者であっても、誰もが皆、かつては神さまからの招きを拒んでいた者だったのです。それが神さまの招きに従い、主イエスを受け容れて従うことができたのは、わたしたちの思いを遥かに超える出来事です。全く想定していなかった形で招きが与えられ、更にそれに応えることができたことこそが驚くべき奇跡です。
こうして聖霊の働きによって信仰者とされた者たちの間には「平和」が与えられます。これは主イエスが与えてくださる真の平和であって、単に自分の安心安全が保証された状態ではありません。いわゆる事なかれ主義者の考えるものとは違います。ところがわたしたちは自己保身のあまり、勇気を持って他者と向き合うことがなかなかできません。不正を行う者に反対すると自分が不利になる状況では、その実態が不正なのだと分かっていてもそれを見逃し、虐げられている者の声は黙殺します。勇気を振り絞って悪を告発することはありません。自分が告発することで反発を受けることを恐れて逃げるのです。これを事なかれ主義と言わずしてなんと言いましょうか。それは主イエスが与えてくださる真の平和を拒むことです。
しかし主イエスの愛に触れた信仰者は声を上げます。または上げられた声に耳を傾け、行動を起こします。それゆえ一時的に辛い思いを味わうかもしれません。しかし主イエスが共にいて「心を騒がせるな。おびえるな。」と言ってくださいます。このお方は、肉の目には見えなくても、聖霊なる神さまの働きによって、真理に根差して生きようとする者と共におられます。悪に向き合う覚悟の無い事なかれ主義者にとって、こうして主イエスによって立ち上がる信仰者は、自分たちの平和を乱す存在としか思えないでしょう。また権力者はそれを躍起になって抑えこもうとします。しかし彼らも、主イエスと主イエスに従う信仰者をどうすることもできません。
こうして主イエスに従う者たちを用いて、キリストの平和が実現します。この真の平和の御業の実現のために、主イエスは共に立ち上がって進むよう、わたしたちに呼び掛けておられるのです。「さあ、立て。ここから出かけよう。」。