Assertion

エッセイ:「信仰の形骸化との闘い」

更新日:2022.07.10

中本 純

教会が直面する信仰の形骸化の危機

「食べる」という行為は人間の五感全てを用いる行為です。人は食べる対象を目で捉え(視覚)、その香りを嗅ぎ(嗅覚)、口に運びその感触を知り(触覚)、咀嚼する音を聴き(聴覚)、そして味わう(味覚)。教会の礼拝において私たちの五感全てを用いる場面があるとすれば、それは聖餐式であると思われます1。主イエスが「わたしの記念としてこのように行いなさい。」(ルカ二二:一九)とお命じになられた聖餐の儀。現在、コロナ禍により礼拝ならびに教会の営みというものは様々に制限が課せられた部分がございます。そしてそれは聖餐式にも当て嵌まることであると思われます。もちろんそれは教会毎によって状況や対応は異なっていますので一律に述べることは出来ないのですが、私が仕えています教会では昨年度まで聖餐式を年に三回(イースター、ペンテコステ、クリスマス)に限定して行っていました(今年度より毎月実施へと戻しました)。それは言うまでもなく、感染症対策の一環としてやむを得ない教会の決断でした。そうした感染症対策に関する様々な方法論や、それに伴う神学的考察といったものは当然、考えられるべき事柄であると思います。ですが、ここではコロナ禍以前より既に存在し、ともすればすべての教会に起こり得る一つの危機について、私が感じていることを書いてみたいと思います。

「コロナ禍以前より既に存在し、ともすればすべての教会に起こり得る一つの危機」、それは信仰の形骸化です。日本におけるキリスト教伝道の不振が語られるようになり久しく、私たちが所属する日本基督教団でも例外ではないように思われます。時に、「教会の高齢化」という言葉を耳にすることがありますが、その言葉についても、決して「高齢の新来会者・求道者・受洗者」が増えている訳ではなく、「全年齢的に減少傾向にある」ことを示しています。もちろん、伝道の業は私たち人間の観点で推し量るものではありませんので、教勢や会計報告といった数値化によってのみ判断されるべきものではありません。また、「この世的な観点」からそうした問題を解決すべく、手練手管を弄して目の前の状況を打開しようと試みたところで、キリストの福音が正しく宣べ伝えられなければ、それは何の根本的解決にもなりません。私が感じています問題は、そうした根本的な信仰理解、伝道理解を踏まえた上で、「では、私たちの教会は生き生きとしているだろうか?」、「喜んで伝道と牧会の業に仕えているだろうか?」、もっと言うと、「教会生活が楽しいと感じているだろうか?」ということです。

 

霊的(霊性の)欠如がもたらす信仰の形骸化

信仰の形骸化は教会の営みの中で発生します。礼拝の中心に据えられている説教と聖礼典をはじめ、信仰告白や讃美、その他諸集会や奉仕の業に至るまで、様々な場面で発生します。そして信仰の形骸化は霊的(霊性の)欠如から生まれます。いま生きて働いておられるイエス・キリストが確かに証しされ、御救いの出来事が起こっているか?キリストの贖罪の御業が現在的効力として聖餐に与る私たちに確かに起こっているだろうか?そのことが教会の営みの中で常に問われているのです。その際、言うまでもないことですが、「神の言葉の説教が神の言葉」(『第二スイス信仰告白』)であり、御言葉と共に分与されるパンと杯にキリストの贖罪の現在的効力があります2。また、コンスタンティノポリス公会議(三八一)で議長を務めたナジアンゾスのグレゴリウスはその優れた聖霊論によって『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』が教理と霊性の結合した告白となることに寄与しました。説教、聖餐、信仰告白、これらはいずれも聖霊の御働きを通して、いま生きておられるイエス・キリストの確かな臨在を顕すものです。讃美やその他、祈りが伴う諸集会においても然りです。

では、何をもって「霊的(霊性の)欠如」と言えるのでしょうか。それは、私たち人間の側の霊的な眠りによって引き起こされます。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。」(マタイ二六:四五)ゲッセマネの園で血の滴るような汗を流しながら祈られる主イエスの傍らで眠りに陥る弟子たち。弟子たちを襲った霊的な眠りは、目の前におられるまことの救い主のお姿を見えなくさせ、このお方が語られる御言葉に対して無理解を引き起こしました。使徒パウロは手紙の中で霊的な眠りに対する警鐘として次の言葉を述べています。「わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」(一テサロニケ五:五~六)新約聖書の時代から五世紀頃にかけて、初期の教会は洗礼と聖餐、また共同の祈りを通じてキリストへの参与をダイナミズムに実現する礼拝形式を確立しました。それはユダヤ教の遺産から受容され、徐々に改変されたものです。典礼という点に限らず、キリスト者の実践や道徳面においても『十二使徒の教訓』(ディダケー)に見られる断食や日毎の祈りといったものは、今日私たちが見失いつつあるキリストとの合一を目的とした生活綱領を伝えています。そうしたことは、後の宗教改革期においてもカルヴァンがジュネーヴ市の参事会員や長老たちを通して課した神との契約の履行に置かれていた目的として見受けられるものです。公私にわたる霊的生活にはキリストとの合一が常に目的として固く据えられていました。新約聖書において「霊(πνευμα)」は、「体(σώμα)」の反意語ではなく、神の御霊に逆らうすべてのものという意味で「肉(σάρξ)」の反意語として扱われています。そうしたところで所謂プラトン哲学が語る霊肉二元論3を退けているのですが、ここの部分が霊的眠りによって曖昧になってしまうと信仰をあたかも形而上学的に捉えてしまい、実生活とは分離したものとして扱ってしまう過ちに陥ってしまいます4。それは霊的眠りが引き起こす信仰の形骸化であると言えます。信仰や神学を形而上学的に捉え、それを形而上学的に議論することを楽しみ、その結果、自らの信仰(生活)に知らず知らずの内に「コルバン」(マルコ七:一一)を設けてしまうのです。

 

信仰生活にコルバンが入り込む時

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」(ヨハネ五:三九~四〇)私自身、大学生の時分、哲学書の中に「人生の究極目標」や「幸福」といったものがあると思い、あれこれと読んでいたことを思い起こします。しかし、自らの不勉強もあって、それらはやはり形而上学でしかなく、現実的に自分の人生を満たすものとはほど遠いものであると思うようになりました。教会に初めて足を運んだのは社会人になってからです。当時、様々な問題を公私共に抱えていました。その時の感覚を今でも覚えていますが、それまで一度も教会に足を運んだことの無かった人間が教会に足を運ぶという時、そこには(喩えとして相応しくないかも知れませんが)ある種の「身投げ」のような感覚があったのを覚えています。最早、自分の力ではどれだけ頑張っても自分を救えない、道が完全に閉ざされ神によりすがるしか方法が見当たらない惨めな自分。そのように感じていたと思います。しかし、「教会には何かがある」そう感じ取れるようになるまでにはそれ程時間はかかりませんでした。教会には何かがあるのです。いま生きて働いておられるイエス・キリストが、教会に注がれる聖霊を通して臨在してくださり、救いの出来事が確かに起こされるのです。だからこそ、教会に足を踏み入れて間もない人は職場や家庭、社会のあらゆる場面で直面する理不尽に満ちたそれまでの生活や人生を、イエス・キリストに明け渡そうと決断するのです。それはダイナミズムに満ちた行為です。「身投げ」から「明け渡し」、これはもちろん私個人の経験に基づく感覚的な言葉に過ぎませんが、ただ、少なからず自分の人生を変えて欲しいと願って教会に足を運ぶ方はおられると思います。

そうしたところで、もし、足を運んだ先の教会が生き生きとしていなかったり、喜んで伝道や牧会の業に仕えていなかったならば、もっと言うと、集まっている方々が教会生活を楽しいと感じていないことが伝わってきたならば、何のために自分の人生を明け渡す決断をしたのか分からなくなってしまいます。すっぱりと教会から足を遠ざける人もいるかも知れませんし、あるいは自分や信仰に対して何かしら後付けの言い訳や解釈(コルバン)を設けて無理矢理納得しようと努める人もいるかも知れません。いずれにせよ、求道者と教会が、互いに求めるものと与えるものが合致していながら、それらが円滑に供給されない(まるで水の流れが堰き止められたかのような)事態が起こってしまうと、それは不幸でしかありません。このことはもちろん求道者のみならず、信徒や長老、執事、そして教師にも当て嵌まります。

 

霊的(霊性)に満ちた信仰生活―教義学的であり弁証学的生活―

私たちに起こり得る霊的な眠りはそうした目に見えるしるしを伴って知ることが出来ると思います。それは何も現代特有の問題ではなく、教会がキリストとの合一を目的に歩んできたからこそ、初代教会の時代から普遍的に横たわっている問題であると思います。だからこそ、使徒たちの時代から教会は聖霊の充ち満ちているキリストの体(エフェソ一:二三)であることが強調され、キリストのリアリティを信仰するための教理形成の歴史が展開されてきたのです。その際、教理形成の萌芽として知られる教父時代5が弁証学的にも優れた時代であったことを見落としてはなりません。紀元二世紀に活躍した弁証家ユスティノスなどは、異教の立場に立つ愛知者(哲学者)たちに対して、彼らが信じるギリシャ哲学の中にも実は福音の種が蒔かれており、哲学が目指すべきところの真理はイエス・キリストの福音に置かれていることを雄弁に語ります6。こうした弁証学的な(キリスト教界外との)議論の機会を普段、私たちはどれだけ持っているでしょうか。教義学(キリスト教界内)の議論に終始し、それで満足してしまっていないでしょうか。何も理論武装して異教文化に乗り込み、相手を論破しろと言うのではありません。単純に、キリストの福音をまだ知らない方に自分の喜びの源流を自分なりの言葉で伝えるのです。そうした時、実は私たちが「与える側に立つ時」にこそ、聖霊が大きく働きかけてくださることを実践的に知らされます7

主イエスが人間の五感を用いてまでへりくだってくださり、私たちに示してくださった聖餐の儀。それは誤解を恐れずに言うならば、神の側が私たち人間に対して行われた弁証学的な愛の御業であると言えるのではないかと思います。聖餐に限らず、そもそも神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた8このお方にこそ、私たちの信仰の在り方は示されています。

弁証学的な思考は教義学的思考をも養ってくれます。それらは車の両輪だからです。大切なのは自分の言葉で伝えることです。言葉は人格の投影です。私たちは言葉を用いて神と人との人格的交わりを可能とされています。この言葉に聖霊なる神様が働きかけてくださり、私たちの交わりを神の御業へと昇華してくださるからです。「これからも教会に連なる方々との会話を楽しみたい」、「教会学校の子どもたちや青年ともっと会話したい」、「近隣の方々やこの地域に暮らす人々ともっとコミュニケーションを取っていきたい」そう願う心がある限り、私たちは常に霊的に目を覚ましていられるのだと思います。

おわりに

いま、日本の教会において起こっている最たる課題は果たして「高齢化」なのでしょうか。私にはそのようには思えません。それは問題の本質から目を逸らせるための詭弁であるようにさえ思われます。問題の最たる部分は、これまで述べてきましたように「信仰の形骸化がもたらす霊的欠如」であると思われます。たとえば、いつも暗い顔をしてこちらが挨拶を投げかけても返事が返ってこない牧師がいます。その一方で、その方が牧師同士の集いでは満面の笑みを浮かべて著名な牧師に対してせっせと挨拶回りをしている様子を目にし、「ここは政治家の集いだったか」と錯覚を起こしてしまうようなことがあります。そうした時、その牧師が仕えている教会の方々は教会生活が楽しいと感じておられるだろうか?生き生きと伝道の業に取り組むことができているのだろうか?と、ふと心配になります(もちろん、それは自分自身にも投げかけられていることですので、常に気を付けなければならないことなのですが)。教会に連なる教会員の方々の霊的欠如を説いたり、疑ったりするような論調で説教の学びを進めている牧師のセミナーグループがあります。しかし、そのようなことを言う前に牧師自身の霊性、果ては社交性といったものが問われているように思われます。サラリーマンはたとえ嫌な相手であっても、笑顔で先手挨拶(必ず相手より先に自己紹介をする)をすることを新卒の段階で学びます。たとえ、心ではしかめっ面であったとしても表情は笑顔でいることを徹底して学ぶのです。「教会はこの世的な理とは異なる」と言い張って、表情においても心の内においてもしかめっ面を称えている牧師は、ではどこで「福音の喜び」を伝えているのでしょうか。そのように言うと、「説教だ」とおっしゃるのでしょうが、「元サラリーマン求道者」の立場から言いますと、そのような笑顔で挨拶もできない牧師の礼拝説教をわざわざ時間を割いてまで聴きに行こうとは思いません。既に、「伝道以前」の段階で終わっているのです。少し愚痴っぽくなってしまい、大変恥ずかしい思いがいたしますが、言葉と人格とを介して働きかけてくださる三位一体の神を崇める私たちの信仰と伝道の業は、私たちに「形式的な言葉や人格」を求めてはいません。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ四:二四)主イエスの語られた御言葉が、いまの私たちに突き刺さってくるような思いがいたします。主なる神を愛し、隣人を自分のように愛するように命じられている私たちは、もはや形だけの言葉、形だけの態度を捨て去り、まごころをもって信仰と伝道に臨むことが求められているのではないでしょうか。

  1. 「食べる」という行為は人間の五感全てを用いる行為です。
  2. 聖餐の本質が「しるし」と「事柄」の「サクラメント的一致(unio sacramentalis)」にあることを指す。
  3. プラトン著『パイドン』に記されている「霊魂不滅の最終証明」は、ソクラテスが語る霊肉二元論を伝えている。
  4. 「サンデー・クリスチャン」という言葉が示す通り。
  5. 一〇〇年頃から四五一年まで。
  6. ユスティノス『第一弁明』、『第二弁明』。
  7. 「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」(マタイ一二:一二)。
  8. 『フィリピの信徒への手紙』二章六~七節。

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